方丈記について知っているのは作者が鴨長明であることと冒頭の一節の二つくらいだった。この古典はこんな文章で始まるのを私は暗記していた。

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」

 この記憶だって方丈記をきちんと読んだからではない。恐らく中学か高校時代の古典の授業の中に出てきたか、それとも高校受験の参考書などで覚えたものだろう。それでもこの冒頭の一節はどこか韻を踏んで流暢であり、しかもその語っている意味もまた分かりやすいことから、この歳になるまで頭の隅に残っていたらしい。もっともこの一文は古典の名文として名高いから、様々な人の著作などで引用されていたのがいつの間にか私の記憶に刷り込まれてしまったのかも知れない。
 そうした中途半端な記憶である証拠にはこの引用した部分以外は、その内容についてまるで記憶がないことがあげられるだろう。

 それはともかく、どうしたことかこの一文が最近どことなく頭に浮かんでくるようになってきた。一回浮かんでしまうとそのことを忘れてしまっても、またどこからともなく泡沫のごとく浮かんでくる。人生の無常を感じる年齢に私が近づいてきたのだとはあんまり考えたくないけれど、正月が過ぎて行く年来る年の様々を我が身に重ねる機会が少しずつ増えてきていることが影響しているのかも知れない。

 ふわっと頭に浮かびそのまますっと消えてしまうような現象なのだから、そんなに気にすることのほどでもない。そうは言ってもなんとなく気になるものだから、今更とは思いつつも、図書館から借り出して挑戦することにした(「すらすら読める方丈記」、中野孝次、講談社)。さすがに古語辞典片手に原文に挑戦しようとするほどの意気込みには乏しく、借りた本の表題からも分かるとおり原文と分かりやすい訳文、それに親切に解説もついていると称する優しい一冊を選ぶことにした。

 読んでみて最初に気づいたのは、天変地異にしろ貧富の差にしろ、この時代もまた多くの人びとの生活は現在と同じような厳しい環境に置かれていたのだとの思いであった。引用した序文に続く文章は、世の中は変らないように見えても建物も人も「(二)・・・朝(あした)に死に夕に生(うま)るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける」と栄枯盛衰もまた世の習いであることを教えている。

 読み進んで知ったのは、ここにも大きな災害の記述があったことであった。「(五)・・・都の東南より、火出できて、西北にいたる。はてには、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などまで移りて、一夜のうちに、塵灰となりにき。」の火災は、京都の三分の一を焼き尽くし死者数十人、牛馬の死は際限もなかったとしている。そして話は風による災害や飢餓・飢饉などへと続き、その被害などが詳細に語られていく。そして地震がくる。

 「(二一)・・・そのさま、よのつねならず。山はくずれて、河は埋み、海は傾きて、陸地をひたせり。土裂けて、水涌き出で、巌割れて、谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬は足の立ちどころをまどわす。都のほとりには・・・一つとして全からず。或はくずれ、或はたふれぬ。塵灰立ちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家のやぶるる音、雷にことならず。家の内にをれば、たちまちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。・・・」

 震度やマグニチュードなど、現代と比較するに足るデータの記述こそ当然のことながらないけれど、それでもここには昨年3.11の東日本大震災を髣髴とさせる記述がある。解説によるとこの地震は元暦2(1185)年7月に起きたとされているから今から8百数十年も前のことである。
 東日本大震災でも、この地方には「ひとりてんでんこ」(地震がきたら津波がくるから回りの人たちを気にすることなく、それぞれ自分の助かることだけ考えて避難しろ)などの伝承や津波がはるか内陸部まで押し寄せた形跡(貞観地震)などが多く伝わっていることが明らかになってきている。人は昔から災害になすすべもなく流されてきたのである。

 方丈記は更に世の習いにまで及ぶ。
 「(二五)・・・いきほひあるものは貪欲ふかく、独身なるものは、人にかろめられる。財あれば、おそれ多く、貧しければ、うらみ切なり。人を頼めば、身、他の有なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世にしたがへぱ、身、くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心休むべき。」

 800年前のことだから現在とは習慣も人びとの考え方も違っているだろう。それにもかかわらず、「力のある者は欲が深いし、頼る者のいない孤立している人は他人から軽んじられる。財産がある人は失わないか心配し、貧乏ならば恨み心も強い。人を頼りにすれば己の存在理由や自由を失ってしまう。人を慈しんで世話をしていても、心はどこかで見返りを求める妄執にとらわれる。世の中のしきたりに従ってしまえば自分を苦しめることになるし、逆に従わなければ狂人と見られてしまう。どんな人生を送ったら心安らかになれるだろうか。」との彼の思いは、現在の私たちに共通した意識を伝えてくれる。

 特に「人を頼めば、身、他の有なり」はどこかやりきれない人生観を私たちに伝えてくれているような気がする。孤立と共存みたいな対立構造は現代でも世の中のあらゆる場面に現れてくるように思う。そのたびに協調とか共存とか調和みたいな理想像を伴った説得が正義として浮かび上がってくるけれど、そうした意識は鴨長明も言うようにどこかで他者の中に自分が埋没してしまう状態をも示唆しているような気がしてならない。

 800数十年を経て災害においても生き様についても、人はあんまり進化してこなかったのかも知れないとこの本を読んでふと思ってしまう。地球の裏側のできごとまで瞬時に伝わってくる現代ではあるけれど、私たちはそうした時代の変化や対立に対して、たとえば「無関心」、たとえば「無批判」、たとえば「知らんぷり」などの仮面をかぶることで、800年前の人びとそれほど変らない生活を繰り返しているのではないだろうか。


                                     2012.1.20     佐々木利夫


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