最近、私の居場所が少しずつ減っていっていることに気づかされている。自宅には曲がりなりにも書斎を模した一室を持ち、外には税理士事務所の看板を掲げた一人きりの小さいながら個室を持っているのだから、居場所が減っていくと嘆くなんどは贅沢を通り越して信じてすらもらえないかも知れない。その通りである。そうした意味での私の居場所は、贅沢とも思えるほど空間的にも時間的にも潤沢である。

 実はこの「居場所が減っていく」との感触は、通勤電車での話なのである。くるぶしが痛み始めて、通勤手段を徒歩からJR定期券に変えて1年少々になる。仕事よりも自分の時間を大切にしたいと思う気ままな毎日だし、何といっても一人だけの事務所だから出勤も退社も自在に決められる所長・使用人兼務とは言え我ながら贅沢な環境にある。しかし公務員として退職までの四十数年をまじめ(?)に勤め上げてきた習慣というのはなかなか変えられないもので、似たような時間帯に自宅を出発し、似たような時間に事務所を後にするのは私の習性そのものになりつつある。

 だからそうした出退勤の毎日は、通常のサラリーマンのそれとほぼ似たような時間帯に重なることになる。したがって多少のずれはともかくとして朝夕のラッシュも人並みに経験することになる。
 ラッシュとは言っても東京・大阪などと札幌は違うだろうから、立錐の余地なしと言うほど車内が混雑しているわけではない。それでも乗降駅は行きも帰りも始発とは無関係な中途駅なので、空席に出会えるチャンスはまず望めない。齢70数歳ともなればシルバーシートを利用する資格は充分にあるつもりなのだが、そうした席も老若男女を問わずに早い者勝ちの先客に占拠されているのは日常のことなので最初から諦めている。とはいっても乗車区間は次の次までの二駅で、所要時間も僅か数分のことだから、シルバーシートの不法占拠やいたわり不足に目くじらを立てるほどのことではない。

 その僅かな時間を使って私はカバンから本を取り出す。ところで立っているままで片手にカバンを持ちつつ本を読むというのは、揺れる車内ではけっこう難しいものがある。若者なら電車の揺れに両足だけで自在に体を合わせることくらい朝飯前かも知れない。だが、よぼよぽ・よたよたのつもりはさらさらないにしても、どこか反射神経が鈍くなってきている我が身にしてみると、動いている車内で両足だけで読書体勢を維持するのはとても難しいものがある。もちろんそうした人のためにつり革があり、手すりがあちこちに用意されている。だが試して見るまでもなくカバン、本、つり革の三点セットを同時に満足させるような姿勢をとるのは現実的にはとても難しいことくらい分かってもらえるだろう。

 もちろん左手でつり革を握り、右手の小指・薬指、時に中指まで添えてカバンをひっかけつつ同じ右手の人差し指と親指で本を開いて持つことは可能である。ただそうした方法では、栞を移動させたりページを繰ったりするのは不可能に近いから、結局本を読むためには両手が必要になってくる。

 このため次善の策として、電車の壁や座席の椅子の背もたれなどの一部を利用して寄りかかる方法(デッキの壁を利用することが多い)を選択している。つまり、つり革にぶら下がる代わりに背中で我が身を支える方法である。もちろん予想外に大きな揺れが発生した場合などには即座の対応が難しくなることは否定できないけれど、最近は運転や線路の状況などもよくなってきて、非常ブレーキなどの場面に出会うことはまずない。かくして僅かな時間でも安心して読書に活用できるというものである。これで三点セットのうちから、つり革につかまるという片手の利用が解放され、カバンを片手に引っ掛けたままの状態にはなるけれど両手で本を支えることができるようになるのである。

 さてここでタイトルに戻ろう。こうした姿勢を選択するためには、どうしても背中を預けるための壁の存在が必要になる。にもかかわらず、その背もたれの対象となる壁の存在が最近とても少なくなってきたことに気づきだしたのである。別に電車の構造が変化して背中を預けるのに必要な仕切りなどが減ってきているというのではない。原因はシルバーシートと同じように、背もたれに使えるような空間もまた先客に占拠されているケースが多くなってきたのである。しかもその占拠している多くが若者なのである。

 最近の若者が床にべったり座るなど、どことなく疲れた様子が多くなってきていることは何かの本で読んだことがある。だからつり革につかまって立っているのが苦痛になって、そのため壁に寄りかかるようになってきたのだろうか。だが良くみるとどうもそうではなさそうである。では今の若者も私と同じように車内で読書をするようになったきたのだろうか。それも違うようだ。だが意味は読書と同じであることが間もなく分かってきた。つまり彼ら、彼女らもまたフリーな両手が必要になってきたのである。つり革や手すりに片手を奪われるという通勤スタイルが変化して両手を解放させる必要が生じ、結果として背もたれが必要な通勤スタイルへと変化したらしいのである。

 原因ははっきりしている、携帯電話である。携帯電話が電話機能からメールやゲームへと移ってきていることは感じていた。しみじみと眺めたわけではないけれど、片手でマシンを握りつつ親指を素早く動かしてキー操作をしている風景は、まさに神業とでも言えるような特殊技術であり、しかも携帯を持っている多くの若者のマジックとも言える共通の特技でもあった。

 その携帯の機能がこの頃変化してきたのである。いわゆるスマートフォン(スマホ)の発明と普及である。スマホは従来の携帯とは異なってキー操作がボタンを押す方法から画面にタッチするシステムへと変わってきた。そして文字入力のみならずメールを読んだりゲームをしたり、写真や動画を見ることなども含めて、それぞれの選択や利用方法も指先を画面にタッチしたり移動させることで可能になってきたのである。
 この結果指先で画面をなぞって操作する機会が大幅に増えることになり、それはそのまま片手だけによる操作が難しくなってきたことを示している。つまりスマホを自在に活用するためには、片手にマシンを持ちもう一方の手で画面をタッチしながら操作するという両手の必要度が格段に高まってきたのである。

 スマホの普及は数ヶ月前の報道では携帯電話の2割超と言われているが、目に見えるほどの勢いで普及が上昇しているらしい。私の感触でしかないけれど電車内でスマホらしき指の動きをしている者の割合は、携帯をひねり回している乗客の半分以上もいるような気さえしている。もっともスマホの方が他人に見せたいとの欲求を満足させやすいのか、また依存性が一般の携帯電話よりも高くて片時も画面から目を離せないような心理的強制力を持ち主に与えているのかは必ずしも分からないけれど・・・。

 両手を使うためという目的が私と同一なのだから、スマホの普及によって若者の背もたれの機会が増え、結果として車内で私の寄りかかるスペースが減ってきたとしても、そしてそのことが仮に私の読書機会を阻害する要因の一つになっているからと言って、不満を言うのは筋違いである。そんなことは分かっているし、「そこのけ、そこのけ」と壁占拠の若者に抗議したいとも思わない。だが、スマホの普及という時代の最先端をいく現象が、僅か二駅数分というささやかな私の読書機会にまで影響を与えていることに少し驚き、かつ多少あきれているのである。


                                     2012.10.31     佐々木利夫


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減っていく私の居場所