とうとう5月5日に、北海道の泊原発が定期検査のために稼動を停止し、これで日本中にある54基の原発のうち4基が廃炉、残る50基の全部が運転休止の状態になった。つまり現在は原子炉からの電力供給は皆無の状態にあるということである。しかも再稼動の申請は政府に出されているものの、いつごろ実現するかなどの見通しは全くついていない状況にある。電力会社や工場での電力不足を懸念する産業界などはこぞって再稼動を要請しているけれど、福島原発事故を見た国民は原発に関連して利益を得ているような人々以外は、どこか疑心暗鬼で賛成の手を挙げず、それに引きづられて自治体も及び腰になっている。それもこれも、放射能汚染による危険性が頭にあるからである。

 そんなときにこんな新聞記事を読んだ。大学の教授による政府の汚染対策に対する意見である。

 「福島第一原発事故の放射能汚染対策に関する実証試験の結果が、・・・国際シンポジュウムや成果報告会で発表された。現在の対策は汚染土壌を除去を基本とする。これを『入り口規制』という。しかし、・・・土壌除去によるよる放射能の低減効果は50%にも満たない。森林除去は・・・土砂流出や斜面崩壊・・・、農地・・・の養分や貴重な微生物をなく(すなど)生態系への影響・・・、汚染土壌の最終処分は解決のめどさえたっていない。・・・これに対して・・・人の生活圏から一定程度離れている(土地は)無理に除染せず、・・・最終的に得られた作物・森林資源を正確に測定し、放射能汚染されていないものだけを市場に流通させることが肝心になる。これを『出口規制』という。・・・消費者にとって重要なのは、土壌の汚染ではなく、最終的に食するものの汚染度であり・・・」(2012.5.4、朝日新聞、慶應義塾大教授、「土壌汚染より流通規制を」)

 つまり彼の主張は、入り口規制は費用もかかり効果も薄いので、これを出口規制に転換すべきであるということにある。この主張はそのまま、「国民は食の安全だけを望んでいるのだから、そこに焦点を当てた汚染対策をすべきである。入り口規制は無駄である」ということでもある。

 それはそれで筋道の通った主張であるように思える。ただその場合、入り口と出口とが等価でなければ何の意味もないのではないだろうか。そうした意味での検証が彼の主張には決定的に欠けているように思える。私にはそうした検証がなされて始めて、この入り口出口の理屈が完成するのではないだろうか。

 さて、彼が捉えている現在の「入り口規制」による汚染対策の基本は、福島第一原発の爆発で撒き散らされ、様々な方法で遮蔽措置が講じられているものの現在も依然として漏れ出ている放射能の全部である。確かに汚染対策は、事故で拡散した放射能の除去に向っているだけかも知れないが、原子炉の廃炉まで含めて現在・将来の原子炉からの漏れについては別の問題として解決していく必要があるだろう。

 そうした包括的な撒き散らされた放射能汚染をどうしたら人間に被害をもたらさないような形で除去できるかが入り口の問題である。つまり、汚染された土壌や森林や河川や海洋からどのようにして汚染を除去していったらいいのか、これが入り口規制の基本である。こうした方法が膨大なコストを必要とする割には効果が薄く、むしろ出口に向ったほうが効率的であり有効でもあるとするなら、そうした方針転換を認めるのにやぶさかではない。

 だが彼の言う「出口」とは「放射能に汚染された資源の流通」に限定されているのはどう考えても変である。彼は出口規制の基本的な考え方として、「・・・消費者にとって重要なのは・・・最終的に食するものの汚染度であり」だけを掲げているに過ぎないからである。多くの人たちが原発周辺地域から避難し、沖縄や北海道まで含めて全国に散らばってまで不自由な生活を続けていることの意味を彼はどんな風に考えているのだろうか。また、汚染された資材などが流通し、それによって建築された建物から放射能が検出され、その建物からも避難しなければならなくなっている人々のことをどんな風に考えているのだろうか。

 確かに放射能の危険性には経口摂取もある。国民の多くが、原発事故のあった地域からは遠く離れているのだし、風向きや降水などによる汚染の拡大も特定の地域に限定されている。だから多くの人にとって口から入る放射能が一番の関心事であることを否定はしない。だが、放射能の危険は何も口から入る内部被曝だけに限定されるものではない。政府も含めて私たちが事故後に一番最初に考えたのは、原子炉からの直接被曝や汚染された空気や土壌などの拡散による外部被曝の拡大をどう避けるかにあったはずである。原子炉から半径数十キロの円を描いて避難指示を出したこと自体が、外部被曝を避けることの意味が大きかったことを示している。

 国民の多くが、そうした行動を風評による被害妄想だとして政府や専門家などから批判されようとも、汚染地域からの倒木の受け入れを拒否したり、汚染された可能性のある地域で作られた花火を「おらが町」で使用しないでと反対するなども結局は外部被曝を恐れているからである。また被災地の瓦礫の処理についても、各自治体が比較的受け入れを表明しているが、それとても放射能に汚染されていない瓦礫であることが前提となっていることは、まだまだ国民の中に外部被曝に対する警戒心が根強く残っていることを示している。そうした外部被曝に対して国民の抱いている警戒心に対して、この投稿者は「汚染された食品の流通規制」とする発想の中で、どのように向きあおうとしているのだろうか。

 そして更には、彼の言う汚染対策としての出口規制とは、流通する食品の放射能測定を厳格、もしくは全数検査をして、一定レベルを超えた食品は廃棄することを言っているのだろうか。だとするなら、そうした食品を生産し、収穫し、流通にかかわる人たちへの対応については、どんな風に考えているのだろうか。もしかしたら、生産や収穫は自由にやってください、ただし基準値を超える放射能が検出された食品は廃棄します、その損害は東京電力なり政府なりに補償を求めて下さい、そんなことを言いたいのだろうか。
 そんな方法よりも安心して農作物を栽培できるような土壌へと改良すること、安心して魚が食べられるような海洋環境の整備に力を入れること、そうした方向へ向かうことの方が、仮に費用が多額にかかったとしても望ましい施策になるとの思いにまでは考えが及ばなかったのだろうか。

 だから私はこの新聞投稿を読んで、彼の言う出口規制の考え方がそもそも原因から除去しようとしている入り口の考え方に比してあまりにも食品と言う狭い範囲にしか及んでいないこと、そして入り口から出口までに携わっている多くの人たちの存在をまるでないがしろにしていること、の二つの点であまりにも経済効果のみに偏り過ぎた傲慢な意見のように思えたのである。


                                     2012.5.18     佐々木利夫


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