規則なんぞというと堅苦しくなるけれど、家庭も社会も程度や意味はともかくとして、一定のルールを守ることで成立している。それは電車の車内や野球観戦のために集まった球場などなど、恐らく複数の人が集まるような場所での共通の約束なのかも知れない。
 いやいや、ルールを守るということはもしかしたら人が一人でいるときでも、その人の行動をどこかで規制しているのかも知れない。

 だからそうしたルールが、病院にだって存在していたとしても当然のことだろう。ただこんな当たり前のことにどこか引っかかるものを感じたのは、ある本を読んでいてであった。本のタイトルは「続 死ぬ瞬間」、著者はE・キューブラー・ロスである。だがこの本は多くの人たちの投稿というか語りというか、自らにしろ家族にしろ死を身近に感じた者の思いを中心に編成されている。

 そんな中にこんな話があった。書いているのは、耳の遠い体のやや不自由な老いた女性である。彼女は老人専用の終身の施設に入所している。もちろん医療も介護も付属している施設である。彼女の日常はリハビリというか健康管理というか、介護士や看護助手などの介助から始まる。

 「・・・歩きましょう。かかとが先、それからつま先。かかと、つま先、かかと、つま先。そしてこの訓練が週に五日はある。・・・とにかく歩くこと、・・・さあ実際にやってみましょうか?。・・・聞こえませんよ。大きな声で。口の中でもそもそ言わない。『はいですか。いいえですか?』。・・・『あなたはトイレに行きたい。あなたはトイレに行きたい。あなたはトイレに行きたい。あなたはトイレに行きたいんですね』。言葉が繰り返されるたびに、声の調子が高くなり、ますます鼻にかかってくる。・・・あーあ、なんと言えばわかってもらえるのか。いやです。いいです。そうです。ちがいます。そうです。そうです。・・・看護助手は白衣を着て、美しく、若くて、明るく、母性愛に満ちている。スカートの丈はものすごく短い。『さあ、いい子だから私のためにおいしい朝食を召し上がってくださいね』。・・・」(同書P215)。

 世話をしようとしている人の気持ちが分からないではない。しかも相手は耳の遠い、もごもごと聞こえないような声で呟いている老人である。多少いらついたところで非難するほどのことはないかも知れない。だからそう思ったり感じたりするのが当たり前の人間であり、人が人の世話をするというのはそういうことをも許容したものなのだと割り切ってしまうことがまさに常識なのかも知れない。

 それを承知でこれを書いているのだから、私の思いというのはそうした常識を逸脱した偏見であり、ないものねだりであり、わがままや贅沢な思いなのだと思われても仕方のないことである。それでもなお私は、こうした患者の思いを常識という海の中に埋没させてしまうことにどこか引っかかるものを感じてしまうのである。

 それは介護者と介護を受ける者とを「互いに人である」こと以前に、対立した位置に置こうとしているように感じられるからである。それは別に介護を受ける者を人間扱いしていないと言いたいのではない。恐らく施設のマニュアルには入所者を「患者様」と書いているかどうかはともかくとして、少なくとも人間として尊重するように書かれているはずである。もしかしたら毎朝の朝礼や定例的な研修などでも、そうしたことは幹部から繰り返し指示されているかも知れない。もちろん、そうした指示を受ける側もまたそのことを我が身に繰り返していることだろう。

 にもかかわらず、私にはここで引用した老女の嘆きの中に、人は他者になりきることなどできないこと、そして共感はできても人は結局己であることの中から抜け切れないことを感じてしまったのである。引用した部分だけからではなかなか伝わってこないかも知れないが、老女は自分の中にある自分をきちんと理解している。そしてその気持ちを相手に伝えようとしている。だが機関銃のように放たれる彼女に向けられた親切な砲火を前にその伝えたい気持ちは粉々に打ち砕かれる。繰り返される砲火はあまりにも早すぎる。そして老女がその内容を理解できていないかも知れないとの思い、きちんと伝わっていないのではないかとの思いを前提に集中砲火は更に続けられる。

 「分かった」、「分かったし、すぐその返事をするからちょっと待って・・・」。そうした思いさえも矢継ぎ早に打ち返される相手との会話の中で、声が小さい、発音が悪い、何を言っているのか分からない状況に付加されてすぐには伝わらない。そして若い介護する彼女は先に引用した文章に続けて、「さあ、いい子だから私のためにおいしい朝食を召し上がってくださいね」と老女に優しく語り掛けるのである。老女を「いい子」と呼びかけることの違和感はさて置くことにしよう。でもこの若い彼女は自分がやっている朝食のサポートに対して、つい「私のために」と口走ってしまう自分に気づいてはいない。

 恐らくその真意は「私のために」にあったのではなく、「あなたが素直に食事をしてくれると、私も嬉しい」程度の軽い意味だったのだろうと思う。でもこの言葉を老女は「そうか、この私のためにじゃないんだ、と私は思う」(同書P215)と感じてしまうのである。

 恐らくこの引用文全体を通じて言えることは、例えば歩行訓練にしても、トイレに連れて行くことにしても、そして食事の介助にしても、その全部が「あなたのためなのですよ」が背景にあるのだろう。報酬との対価関係に伴うサービス提供として義務や契約だからやっているなどと介助する側があからさまに感じているとは思わない。
 でも「あなたのため」という言葉や気持ちがどこか介助する側のあらゆる行動の中に抜けがたく含まれていることを敏感に感じ取り、介助を受ける側はどこか切ない思いにとらわれてしまうような気がしてならない。それは「あなたのため」という態度の中に「私のため」があたかも分離不可能な化合物のように混交してしまっているからである。

 人は他者に共感はできても同一化することは不可能である。生命が細胞分裂だけで増殖し子孫を作っていくのならまだしも、地球上のほとんどの種が「個体としての死」と引き換えに永遠の命を得る道を選んだ。それは他者を自己と区別することでもあり、自他の間には想像することはできても共有することなどできないことへの選択であったのかも知れない。
 だからこの老女の嘆きに応えることなど、ないものねだりなのかも知れない。見果てぬ辺境を空想しているだけなのかも知れない。それでもなおこの老女は「私を分かって欲しい」と心の中で思い続け、聞こえないもごもご声で訴え続けていくのである。

 こうした思いは病院でも同様である。入院患者は病院の決めた一方的なルールに従うことを約束させられる。それは従うだけであって、話し合いなどの契約ではない。起床も消灯も就寝時刻も決められ、患者の意思は無視される。検温も回診も服薬もであり、リハビリの開始時刻や訓練内容や継続時間はもとより服装までも同様に拘束される。そうしたルールに無条件に従うのが「いい患者」であり、そのルールの中に患者の自由意志をさしはさむことなど金輪際許されない。だから入院は一種の契約かも知れないが、それを承諾しないことは「入院できない」ことを意味するから、入院とはつまるところ牢獄での生活への強制的な承認になっているのである。

 そしてルールはやがてマナーに変質し進化していく。病院というシステムが定めたルールに従うことは患者の守らなければならない当然のマナーとして受け手に要求され、そうしたマナーは病院だけでなくあらゆるシステムへと拡大し蔓延していく。
 それは人が集団で生活していくうえでの必然なのかも知れない。ルールと呼ぼうがマナーと名づけようが、そして子どもに向って「他人に迷惑をかけないように・・・」と諭すことであろうが、どこかで「私は今ここにいる」との叫びを否定するような社会を、私たちはいつの間にか作り上げてしまったような気がする。


                                     2012.11.16     佐々木利夫


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医療と病院の規則