「誰かがなんとかしてくれる」、「何とかならないのは、その誰かが悪いからだ」・・・こんな症状が世界中に蔓延しているよう思えてならない。それだけ多くの人が安定したぬるま湯の生活に長く浸かり過ぎていたからなのかも知れないけれど、それでもなんでもかんでも他者のせいにしてしまうような風潮はやっぱりどこか変なような気がする。

 ヨーロッパはEU経済圏を中心にギリシャ、イタリア、スペインなどなど、もしかしたらドイツ以外は全部といっていいほど財政的に危機的な状況にある。なぜそんな危機的な状況になったのか、必ずしも私にきちんと理解できているわけではない。ただそうなった原因が政府の舵取りのまずさにしろ、他国による搾取にしろ、はたまた国民がそうした危機の到来に目をつぶって目先の利益を追いかけていたからにしろ、少なくとも多くの国々が現実の危機として財政難に直面していることは事実のようである。

 そうした危機的な財政を建て直すにはどうしたらいいのか。どんな場合でも答えは二つしかない。それは国であろうが我が家の家計であろうが同じであり、「入るを図ること、出るを制すこと」の二つであり、これ以外には考えられない。

 「入る」ことは国にとって見るなら「税収増」かまたは国民もしくは他国からの借金である。ところが財政危機というのは、個人でも会社でも同じことだが貸した金が返ってこない恐れがあることを意味している。もちろん確実な担保があれば借りることは可能だが、危機と言うこと自体確実な担保の保証がないことをも意味しているのだから、そうした国の国債を国民が購入したり安心して金を貸す国はないことになる。もちろん利率を高額にした国債を発行することも一つの手段ではあるが、それとても結局確実な返済の保証あってのことである。ギリシャの国債の国際利回りは7%を超えていると言われている。こんな高額な利息は10数年で元本の2倍もの額を返済することになるから、財政危機を更に加速する危険があり、益々資金提供は難しくなるだろう。

 「入る」の次の手は税収増である。これには国外からの税収の増と国内、つまり国民への増税の二つがある。国外からの増税は基本的には関税の引き上げになるだろうが、国家が潤うまでの税収増を図るとすればかなりの額の引き上げが必要になる。つまり輸出する他国にとってはそれだけ高い価格を支払わなければならないことになる。もちろんそれが輸入国としての目的でもあるのだが、それでは輸出国は採算が合わないとしてその国には輸出をしなくなるだろうし、輸入国としてもその分だけ商品の価格を高くしなければならなくなるから、特別に付加価値の高い商品でなければ需要も低迷してしまうことになる。

 さてそうなると国民への増税である。税とは国の一方的な収入である。それが所得税や法人税のような直接税であろうと、はたまた消費税や付加価値税のような間接税であろうと、いずれ返済されるとの国債でさえ信用できないときに、国民はおいそれとは増税を承認することはない。増してや国をあげて経済危機ということは、そのまま経済が低迷していて賃金も下がり場合によって失業率の拡大が起きているだろうから、そうした手段は一層困難になる。

 「入る」が困難ならば次の策は「出る」である。これも実はなかなか難しい。公共事業や公務員人件費や補助金制度、介護・福祉・医療・年金などなど削ろうとする項目は星の数ほどあるけれど、そうした星の数々にはそれぞれに既得権益や依存して生活している様々がひっついている。それらに依存している人々は、懐に入るのが増えるならともかく、減るのはもっての他との主張が大合唱になる。ましてや医療や年金はどの国でも財政支出の大きなウェイトを占めているが、そこへ切り込むためには弱い者いじめとの論理をどう交わしていくかが問題となる。

 ここまできても依存体質は変らない。結局は「誰か」を知ろうともしないまま、「誰か分からない誰かが、きっとなんとかしてくれる」に埋没したまま、それでも自分の利益を守ろうとする。恐らくそうした依存体質は、私たち現代人が抱えてしまった行き場のない病弊なのかも知れない。経済成長や安定した生活に慣れてしまった体質は、再び辛抱するとか我慢することには戻れなくなってしまっている。
 それでも「何とかならない事実」は何ともならず、誰も何ともしてくれないのである。やっぱり自分自身で耐えるしかないのである。そこのところは恐らく多くの人たちも、なんとなく気づいているように思える。だだ、気づいていてなお、「それでも誰かが何とかしてくれる」の思いから脱却できないでいる。

 そうした時に人は政治に依存する。具体的には選挙に依存する。政治家の中には「緊縮財政しかない、国民も我慢して欲しい」と主張する人もいるだろうけれど、中には具体策を示さないまま「何とかする」と主張する者も出てくる。そして前者は落選し、後者が政権を握る。依存体質はここまできている。
 ユーロ危機の問題だけではない。アメリカ大統領選挙も同様で、少しでも国民の我慢を強いるような施策は票にならないらしい。

 こうした最近の風潮を見ていると、国民の意思というのをどこまで信用していいのか疑問に思ってしまう。国民をそうした依存体質に育ててしまった社会が悪い、と言ってしまえばそれまでだけれど、たとえそれが事実だとしてもそうした指摘は国の財政立て直しのための何の効力も持ってはいない。なんとかするためには「なんとかなる」ではなく、「なんとかしなければならない努力」が必要とされているからである。
 そうした意味で最近じわじわと広まってきているどこか気になる言葉がある。「民意」と呼ばれる言葉であるである。民意こそ正しいのだと、あたかもそれが神格化された国民の総意でもあるかのように使われているのは、どこか間違っているのではないだろうか。

 ヒトラーがファシズムの根源のように言われているが、私には彼の弁舌にドイツ国民の全部が踊らされたようにはどうしても思えない。もちろん演説の上手さはあっただろうけれど、恐らく当時のドイツ国民の思いの中に、ヒトラーを生む素地が紛れもなく存在していたのでないかと思えるからである。つまりヒトラーを生んだのもまた民意の現れ方の一つだったのではないかということである。それを人の弱さとは言うまい。でも、どこかで人は自分で生きることをしなくなってきているように思えてならない。

 そしてそうした依存症は、とうとう「死」の場面にも現れてきた。自殺は苦しく痛いなど困難なので自力での決行は諦め、他者に任せると言うのである。つまり、「死刑になるために他人を殺す」と言う選択であり、それも日本の裁判では一人の殺人で死刑になることはないので、「死刑になる確率が高くなる多人数の殺人」、つまり複数の殺戮を計画する人が出てきたのである。目的が自らの死刑にあるのだから、相手が憎いとか恨みがある必要はない。「自分が死刑になるための手段」なのだからそれはそのまま無差別であり、しかも殺戮の成功率が高くなるように相手の抵抗の少ないであろう弱者を狙うことになる。
 そうした考えを異常だとして疎外してしまうことも可能ではあるだろう。でも私にはそうした考えはどこか筋が通ったようにも思える。そうした考えに納得できるとか了解できるというのとは違うけれど、それでも筋道は通っているように感じる。

 日本中のみならず世界の情報が、政治や巨悪に限らず、例えばゴシップやスキャンダルのようなものにいたるまで、あっと言う間に私たちに届くような時代になってきた。だからなのかも知れないけれど、依存の情報もまた世界中から伝わってくる。こうした体質は昔からあったのかも知れないけれど、私には伝染病のように拡散し蔓延しているように思えてならない。

 依存体質とはもしかしたら「我慢することのできない体質」と同義語なのかも知れない。「打てば響くようにすぐに誰かがなんとかしてくれる」ことが当たり前に感じられるようになってきている者にとって、「誰もすぐにはなんともしれくれない状況」というのは耐えられない現象であり、それは同時に反発としての「切れる」へとつながっていくことでもあるのだろうか。ともあれ、「己の死」にもまた、「誰かがなんとかしてくれる」ことに期待する時代が到来し身近に迫ってきているのである。


                                     2012.7.11     佐々木利夫


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拡散する依存症