例えば犯罪捜査などのテレビドラマを見ていると、日本のドラマが自白に頼りがちな纏綿たる情緒たっぷりの物語であることが多いのに対して、英米などでは鑑識や科学捜査などの手法や法廷での証拠能力に対する評価がとてもしっかりしているよう感じる。それはドラマとはまるで別のことではあるが、むかし私も税法における「適正手続き(デュープロセス)」について学んだときに気づかされた彼我の違いを改めて知らせてくれる。
 適正手続きとは「人は過ちを犯さない」ではなく、「過ちを犯すけれど、決められた一定の手続きを経て証明された事実は正しいものとみなす」ことであり、「その手続きの適正さを欠いたことで仮に被告人が無罪とされたり犯罪が見逃されたとしても、それはそれで止むを得ない」との一種の割り切りであったような気がする。そしてそれは、適正手続きによったとしてもなお、人も司法も過ちを犯すかも知れないけれど、そのときは結局は損害賠償で解決するしかないとの割り切りでもあったような気がしている。

 このところ日本の刑事裁判での冤罪が相次いで明るみに出てきて、警察や検察における取調べについての可視化が大きな課題になっている。可視化とは取り調べの状況を逐一録画しておくことで、誘導や強制による自白などがなかったかどうかを検証できるシステムを構築しようとするものである。可視化するだけで冤罪が完全に防げるのかどうか必ずしも保障の限りではないだろうが、それでもかなりの効果は期待できるように思えるので私は大賛成である。

 恐らくこのシステムは取り調べに当たって録画していることを被疑者に明示した上で、「もし嫌なら、何も言う必要はありません」という一言から始まるのだろう。これまで密室での捜査に慣れていた警察や検察は、「カメラの前では容疑者は真実を話したがらない」と可視化の導入に消極的であると聞いた。

 可視化に関連してつい先日、NHKの朝のニュースは若い女検事のこんな話を取り上げていてた。「取調室で被疑者の境遇に同情して私も涙を流しながら話を聞いていた。するとその被疑者も泣きながら事実を話してくれた経験がある。でもそんな状況が録画されて他人に見られると思うと、とてもそんな取調べはできませんね。そしてそうした取調べができなくなると、相手との信頼関係が崩れるでしょう」。

 なんとなく理解できるような気のしないでもない。現実の捜査における会話など、私たちはまるで知ることができないのだから、情報の多くはテレビドラマからの請け売りであり、場合によっては冤罪事件などで結果的に無罪と認定されたケースでの事後に報道される番組や記事などからの情報になってしまうからである。それでもドラマに表われる容疑者と検事や警察や素人探偵などが、相手の心情に訴えて事件の解決に結びつけようと努力するケースは、私たち日本人には比較的理解しやすい筋立てなのかも知れない。たとえドラマの最後の10数分をかけて容疑者が自らの生い立ちや犯罪にいたる動機や手口や警察にも解けなかったアリバイ工作などを延々と告白する安手の構成になろうともである。

 だがこうした捜査関係者の言う信頼関係とは、とりもなおさず「自白の誘導」(言葉が不適切ならば「自白への期待、誘惑」と言い換えてもいい)にあることは明白である。多くの場合犯罪は密室で行われるだろうし、たとえ白昼の路上で行われたとしても通りすがりの者はまさに犯人とは無関係な第三者なのだから、犯行の動機や犯罪者の心境などを知ることはできない。犯罪は恐らく、動機や経過や手段なども含めて実行犯にしか分からない要素で構成されていることだろうからである。

 「犯人しか知りえない事実」をどう把握し証明するかが捜査の基本であると、捜査関係者が考えたとしても当然のことかも知れない。そこに「自白の重さ」があり、「自白への期待」が生まれる素地がある。またテレビドラマの話に戻ってしまうけれど、正義の味方である主人公が、被疑者が「知らない」、「やっていない」と否定の自白をしているにもかかわらず、何度も何度も「本当のことを言って下さい」を繰り返すのもこのためである。被疑者が否定している事実は「疑いがある」というだけで「嘘」だと決め付け、その嘘を証拠で破るのではなく被疑者の心情に訴えて自白により証明しようとしているのであろう。

 このことはつまるところ、そうした段階まででは自白以外に犯罪の事実を証明できないことを意味している。もちろん捜査する側に「恐らくそうだろうとか極めて疑わしい」と思う程度の材料はあるのだろう。だがそれを事実として証明できないときに、どうしてひ自白に頼ることになる。
 先に述べたNHKニュースでの女性検事の話も同様である。「相手との信頼関係」とは言っているけれど、つまるところ彼女の手持ちの材料からでは被疑者の犯罪をきちんと証明できないことがそうした発言の背景にあることははっきりしている。自白さえあればあとは簡単である。本人が認めているのだから、あとはその自白を補強する材料があれば起訴できることになるし、場合によってはその自白からあらたな証拠を探すことだって可能だからである。もしかしたら本人の心の奥深く隠されているかも知れない「動機」もまた表れてくるかも知れないし、むしろそれを知るために自白を期待しているのかも知れない。

 だがここで基本的に問題となるのは、少なくとも捜査関係者が自白を期待している状況というのは目の前にいる被疑者を「犯人だ」と疑問なく考えていることである。テレビの2時間ドラマならそれでもいい。犯人であることが視聴者にも少しずつ分かるようにシナリオが構成されていて、最後の5分の自白がドラマの大団円と何の違和感もなく結びつくからである。「解決したこと」で一つのドラマを見終わったことや、それで面白かったことに満足し、ゆっくりと布団に入って寝てしまえばいいからである。

 でも現実の問題としてそんなことがあってはならないだろう。大岡裁きでも遠山の金四郎でも、状況証拠を突きつけられた犯人が「恐れ入りました・・・」と自白して解決する姿は、私たち日本人には馴染みが深いのかも知れない。あれこれ言い訳するのは往生際が悪い奴のすることであると頭から決め付け、「自白すると楽になるぞ」と捜査関係者自らが被疑者に向って言い放つこと自体、事実関係を証明する証拠が手許にないことを間接的に証明している。

 自白はもっとも効率的で手軽な捜査方法であろう。手続き的にも費用的にももっとも安上がりな手法である。警察が何人もの捜査員を集めて当てずっぽうに川浚いや山中での遺体や凶器の捜索をしなくてもいいからである。自白さえあれば「自白されたそこ」を調べるだけでいい。毎日毎日起きる軽微から重大までの様々の事件に対し、限られた人数と費用で解決していくには、何と言っても自白がもっとも効率的でありそこに焦点をあてた捜査への誘惑を感じたとしても理解できないではない。でも繰り返しになるけれど、「自白を求める」最大の背景には、「目の前にいるのが真犯人だ」との思いが抜けがたく存在していることである。そしてそうした思いは自白の本来の意味から離れて、誘導や強制(それがたとえ信頼関係などという美名の隠されていようとも)へと連続していく。こうした思いをどこかで断ち切らないと、「自白を求める」ことの弊害は決してなくなることはないだろう。

 憲法38条が不利益供述の不強要や自白の証拠能力について規定してからすでに66年を経過し、刑事訴訟法317条が「事実の認定は証拠による」と定めたのも同様の時期である。こんなにも長い年月を経ていながら、捜査関係者(もしかしたら私たち自身も含まれるのかも知れない)の心のなかには、依然として自白に頼ろうとする思いが残ったままになっているような気がしてならない。

 「本当のことを言って欲しい」、「本当のことを言って下さい」、「洗いざらいさらけ出して楽になりなさい」・・・、捜査関係者のみならず被害者やその家族を含めてこんな発言が依然として繰り返される。そうした背景に被疑者の沈黙があるからなのではない。何らかの意思表示があるにもかかわらず、その意思表示が「嘘なのだ」とこうした発言をする人たちは頭から決め付けているのである。そしてそれは、その被疑者の発言が自分の思うシナリオとは違うこと、そして自分の思うシナリオに沿った発言こそが「本当のこと」なのだとする執拗な思い込みがそうさせているのである。だからこそ検証も証明もなしに、「私の思っているシナリオこそが正しいのだ。それに反する供述は嘘だ」、だから「本当のことを言え」と迫るのである。

 自白への誘惑は警察や検察だけに限るものではない。戦後日本の裁判制度にも多大な貢献をした著名な民法学者戒能通孝も自著の中でこんな風に言っている。「裁判官にとって陥りやすい一番大きな誘惑は、法廷の内にせよ外にせよ、当事者の自白がある以上、それによって裁判することは、一応の意味では正しくはないかということである」(法廷技術P162、戒能通孝著、岩波書店)。誘惑は公平であるべき裁判官にも及ぶのである。なぜそうした誘惑が発生するのかについてはかなりのボリュームがあるので同書を読んでもらうしかないけれど、例えばビールを飲みながら暇つぶしにテレビの刑事ドラマを見ている私たちの心の中にも、この誘惑の素地は自覚されないまま潜んでいるように感じられる。だから自白への誘惑に対する検証は、決して検察批判、司法批判の段階だけに止まっていてはいけないような気がしているのである。


                                     2012.7.17     佐々木利夫


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自白と可視化