目の前に避けられない現実が立ちはだかっているとき、じたばたせずに泰然としてそれに従ったり受け入れたりすることが成長した大人としての度量なのだと、私も私たちも思ってきたのではないだろうか。そしてそうなることや、そうなるために努力していくことこそが大人になることなのだと・・・。
 「あるがままをあるがままに受け入れること」が成長したことの証しであり、「ガタガタするんじゃねぇ」と配下を一喝するヤクザの親分の小気味よさに通じる心意気なのだと、私はどこかでそんな風に人生を考えていた。

 でも、「私は老人で老い先が短いのだから、特に気にしないで放射能を含んでいるといわれる食べ物でも口にする」(11月だと思うのだが掲載された日は忘れた、朝日新聞の読者の声欄だった)との投書を読んだとき、そうした思いが揺らいだのである。そしてそうした受容する姿勢が本当に人の生き様として正しいのかどうか疑問が湧いてきたのである。受容する心とは、時にとんでもない間違いに通じることもあるのではないかとふと思ったのである。

 避けられない様々に逆らうことなく従容として従うことや、そうした様々を運命だとして受け入れることが大人の潔さだと思っていたのは、もしかしたらとんでもない間違いではないだろうかと思ったのである。受容するとは、我が身に降りかかってくる不利益を、そのまま不利益として承認することである。でもその時に感じることが我が身に対する不利益だけに限ってしまっていいのだろうかと思ったのである。そして私さえ我慢すれば他者はどうなっても構わないと考えることを、果たしてどこまで受容の範囲に含めてしまっていいのだろうかと疑問に感じたのである。

 この投書をした人は、恐らく直接死亡したり火傷をするような大量の被曝線量でないのなら、その影響は数年・数十年先に現れてくるのだろうから、そんな将来まで生きている保証のない老人の私には無関係だろうとの思いがあったのだろう。ガンだろうが心筋梗塞だろうがはたまた交通事故や放射能障害であろうが、我が身に発症する前に死んでしまうのなら、そうした病気や事故を心配する必要などないと考えたのであろう。

 そうした理屈や思いの分からないではない。少なくともその個人にとっての死は、その個人の将来も含めて一切の終わりを意味することになるからであり、その終わりの決定は自身で決めていいのではないとの思いだろうからである。でもそこで思考を停止してしまうのはエゴではないだろうか。エゴとはその人個人の思いである。だからエゴもまたその個人の死とともに消滅してしまうのかも知れない。でも個人の思いにだって現在を変える力が含まれているのであり、現在の変化は将来の変化を生み出す要因になると思うのである。
 老人が自らへの影響がないからと考えて放射能を含んだ食物を摂取するか、それとも摂取しないかを決めることはその老人にとっては誰に干渉されることのない自由な決定である。たとえその意思のなかに自殺願望が含まれていようとも尊重されるべきだと私は思う。

 だが時代はそれを許さないほどのスピードで変化するようになった。「自分だけの思い」の中に閉じこもってなどいられない時代へと変化してしまったのである。「自分の思い」の中への閉じこもりは、否応なく他者をその中へと巻き込むことになってしまうからである。
 地球温暖化、放射能汚染、数年先の消費税の増税、やがてくるかも知れない年金崩壊・・・、なんならオリオン座ベテルギゥスの超新星爆発や太陽が膨張して地球を飲み込むなどの未来の話でもいい。世の中に、「俺の生きている時代には関係ないや」と思えることはたくさん存在している。

 でも世の中を変えるのは人なのである。人の意思なのである。いずれ世の中は変わるかも知れない。少しずつの変化に人びとが気づき、やがて政治や世界が気づいて変革へと動き出すまでになるかも知れない。そのことに異論はないけれど、その変化に対する政治や社会や世界の動きは実はとても遅いのである。そして遅いことは手遅れになることをも意味しているのである。もちろん一人ひとりが動いても手遅れになる可能性は常にある。

 それでも人が動かない以上社会は動いてくれないのである。人の思いは様々である。だからその思いを一つの方向に仕向けようとは思わない。福島原発事故による放射能の程度では人体に影響はないと思っている人がいるなら、それはそれで尊重すべきだろう。でもこの投書をした人は「影響がないから口にする」と言っているのではない。影響があるとは言ってないけれど少なくとも「あるかも知れないが私の生きている間の私には影響はない」くらいは思っていると分かる。ただ自分の生き残っているであろう時間内の自分には影響がないだろうと言ってるに過ぎないのである。

 これはまさに受容に名を借りたエゴだと言ってもいいのではないだろうか。食べるのだから食品なのだろう。その食品はたとえば「放射能が○○ベクレル含まれています。気にならないかたはどうぞご自由にお持ち帰りください。無料です」などと表示されて道端やスーパーに並べられているわけではない。その食品は安全基準値以内との表示の下で無差別に販売されている商品である。そして何が安全かは誰も分からないのである。

 そんな安全の下で、この投書者は「自分の生きている間の自分の身には大丈夫」とのカッコ書きをつけつつも放射能が人体に影響することを感じているのである。もしかしたら我が身とて大丈夫ではなく、「老い先短いこの身、死ぬなら死んでもいい」くらいにまで思っているのである。
 そんな思いを自らの中にのみ押し込めたまま、食品全部の安全を論じてしまうのはエゴである。影響があると感じられるなら、食わない道を選ぶべだと思うのである。それは決して我が命が惜しいからの選択ではなく、多くの人びとが生きながらえていくための大切な選択だと思うのである。この投書者の言い分は、いかにも潔さを示しているように見えるけれど、エゴ丸出しの、いいふりこきの、とんでもなく間違った言い分だと私は密かに思っているのである。


                                     2011.12.28     佐々木利夫


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受容という名のエゴ