2012.5.21月曜日朝、日本列島は金環日食に湧いた。湧いた原因の一つには、多くの人たちが日食に興味を持ったことがあることに違いはないものの、どうもメディアのわっしょいに乗せられた感じのしないでもない。ともあれ鹿児島から淡路島、そして大阪を経由して東京のど真ん中を通る今年の日食は、こうした大都市をコースとする事例では9百数十年ぶりだと言われている。これを東京に限ってみても、173年ぶり江戸時代以来だと、メディアの喧伝には騒がしいものがある。

 ともあれ珍しい物好きは日本人の特性かもしれず、それはもしかしたら他人に乗せられやすい性質を意味しているのかもしれない。ちょうどこの日、仲間二人が集まって三人で事務所でいつもの飲み会を開くことになった。別に日食を記念したわけではないのだが、3月決算5月申告期限の忙中にもかかわらず、「中休みでもしないとやってられない」との声が出て集まることになった。

 そのときの話題の一つに日食があった。だからと言って日食に感動したなどの話題が出ることなどない。互いに70歳を超えてしまうと、それぞれにどこかへそ曲がりみたいな傾向が出てきて、そうした中に日食グラスが売り切れになってしまったことに対する日本人論が話題になった。東京スカイツリーの開業が明日からだそうで、テレビはそれにもわっしょい大騒ぎしているから、きっと明日の混雑と言うか騒ぎは想像通りになるのだろう。

 ともあれ仲間の一人が今日の日食を見ようと目を傷めないための日光を遮蔽するメガネを買うべく、昨日あちこちのコンビニへ出かけたのだそうである。そしてどこの店でも「数日前に売り切れました」とのことで、とうとう手に入らなかったと言うのである。数日前の売り切れということは、店側としても入荷すれば売れるぐらいの想像はついただろうから、店そのものが在庫不足に地団太を踏んだということでもあろうか。ともあれ、今日を過ぎれば無価値になってしまうだろうメガネだが、手に入らなかった残念さはあまり話題にならず、どうして日本人はこうしたわっしょいにすぐ乗ってしまい押し寄せるのだろうかとの、日本人おみこし論の揶揄へと話題は移ることになってしまったのは、我々世代の年齢によるところが多いのかも知れない。

 さて集まった三人のうちもう一人は、わざわざ苫小牧からの来訪者である。苫小牧といっても札幌までは一時間足らずの距離だからそんなに遠いものではない。彼の言い分によると、今日の苫小牧は朝からずーっと厚い雲に覆われ、雨こそ降らなかったものの太陽は瞬時も顔を見せず、結局テレビ中継で日食を眺めるしかなかったとの憤懣である。ここでも「見られなくて残念」ではなく、札幌も含めて全道的にと言うか九州を除いて全国的に観測できた地方が多かったことにこと寄せて、「苫小牧はいつも天気が悪いんだ」とのどこか八つ当たりじみた話題になってしまう。

 さて残る三人目は私だが、観測用のメガネは実は数日前から用意してあった。これの実用性は数年前の部分日食で確認済みなのだが写真撮影用のフィルターを利用したものである。別に日食用に準備したものではない。いわゆる「偏光フィルター」と呼ばれているもので、フィルムカメラ時代の一眼レフのフィルターとして購入したもので、直径6センチものけっこう大きなサイズの円盤である。そのフィルターの偏光の角度をカメラのレンズの前で調整することにより、例えば池や川などの水面からの反射や木々の葉からの反射を防いだり、青空からの乱反射を抑えて雲の白さや青空との対比をくっくりさせるなどの効果を持たせることができるのである。私はこのフィルターを同サイズのもの2枚を持っていた。これをフィルター同士でねじ込むと一枚のフィルターと同じようになる。そして偏光フィルターはフィルターそのものをねじ込みとは別に回転させることができるように作られている。

 このフィルター、1枚では多少薄暗くなる程度だが、2枚重ねて偏光の度合いを直角になるように組み合わせるとほとんど光を通さなくなるのである。これを通して太陽を眺めると、どんなに輝く太陽でも肉眼で少しもまぶしくなく眺めることができるのである。天候と観測めがね、この二つが整うだけで観測の準備は万端であり、あとは明日早朝の開始時刻を待つばかりである。

 北海道札幌の開始時刻は6時33分であり、最大が7時50分、終了9時17分となっている。なぜか目覚めたのは5時半であった。快晴に近い薄曇りの天候であり、試しに部屋からベランダ越しに覗く太陽はくっきりである。
 いつもなら新聞に目を通して7時になったらテレビのニュース、トイレ歯磨き洗顔を終えて7時半から朝食と同時進行で朝のNHK連続ドラマをBS放送で見る、そして8時過ぎに背広に着替えて8時19分のJRに乗り、8時45分頃事務所到着が定番である。だがそのスケジュールを維持していたのでは思うような観測はできそうにない。それで開始までの間に新聞から洗顔まで済ませてしまうことにし、テレビドラマも事務所で再放送を見ることにして、今朝は日食三昧である。

 さて開始時刻になった。既にテレビは日本各地にカメラを配置して実況中継を始めている。それはそれでいいのだが、こうして目の前で札幌の太陽を眺めている者にしてみると、「兵庫県ではもうすぐ金環食になります」みたいな放送は、いささか余計なお世話のよう気がしてくる。私の部屋は南東方向に向いているので、太陽は冬至の頃は真正面から日の出を見ることができるけれど、今はかなり東寄りで高度も高くなっている。6時33分、恐らく始まったのだろうが望遠鏡もない肉眼での観測ではそれと分かることはない。10分ほど経ってからどうやら太陽の右上方が少し欠けてきたのが分かる。

 困ったことになった。太陽はどんどん高度を上げていくので、ベランダ越しに観測している身にも上を見る角度がどんどん上がっていくことになる。だがベランダと言うのは実は一階下の階の住人にしてみれば庇(ひさし)になっているということだから、6階に住んでいる私にとっては7階のベランダが実は庇になっていて、太陽の高度が上がるにつれて屈まないと観測できないようになってきたのである。しかも現在我がマンションは大規模修繕中で、すっぽりと足場が組まれていてベランダへ飛び出すことができない状況にある。そして最大食分が近づくにつれて部屋の中から床に仰向きになって寝そべるようなスタイルでの観察が要求されるようになってきた。

 これでは室内からの観測はかなり窮屈なので戸外へ出て広々とした場所で観測することにした。最大食分84%と言ってもそれがそのまま実感できるわけではないが、時計と睨めっこで間接的に「ああこれが84%か」と納得する。
 そのときふと木漏れ日の話を思い出した。「太陽を肉眼で見ると目を傷めるので、観察メガネがない人は木漏れ日で鑑賞しましょう」みたいなテレビでの解説を思い出したのである。マンションの周りにはナナカマドが街路樹として植えられている。快晴の空にななかまどはしっかりと葉を茂らせ、咲き始めの白い花を開かせている。その木漏れ日を目で追った。そして突然私の知識とは少し違っている現象に気づいたのである。

 考えてみれば私の知識の間違いは当たり前のことだったのだが、私は影絵と木漏れ日に映る太陽の姿とを混同していたのである。ナナカマドのたくさんの葉の隙間を通って地上に太陽の光が届く、そのことに違いはないのだが、ナナカマドが作る隙間と言うのは大小さまざまで、そのサイズに合わせて地上に描かれる太陽の姿もまた大小さまざまだろうと、私は無意識に考えていたのである。それは例えば壁に影絵を映すとき、両手で大きな輪を作れば影も大きな輪になり、人差し指と親指で小さな輪を作れば影絵もまた小さな輪になる、そんな記憶からきていたのだと思う。

 でも現実は違ったのである。木漏れ日の作る太陽の姿はナナカマドの葉のつくる様々な隙間がレンズになって、一種の針穴写真機として地上に太陽の姿を描くのである。だから隙間の大小は単なるレンズに被せた「絞り」だったのである。例えばカメラの絞りを絞って光量を少なくしても、映像は暗くなることはあっても映像そのものが小さくなることなど決してないのである。木漏れ日に揺れるいくつものぼやけた三日月様の太陽の映像は、明るさはともあれみんな同じような大きさだったのである。ぼやけ具合はともかく、一円玉のような姿から50円玉サイズの姿まで様々な大きさの太陽が地上に描かれると無意識に感じていた私の感覚はものの見事に裏切られたのである。

 数本のナナカマドの並木から映し出されるたくさんの日食の最大食分84%の三日月スタイルの太陽を眺めながら、私は改めて私の知識の不確かさを感じたのであった。なんだかとっても大きな収穫が得られたような、得したようなそんな気のした今日の日食であった。

 さて今日の出勤は起床から日食にかき回されることになったが、それでも次回の北海道の日食は18年後だとも言われているから、もしかしたらこれが最後の観察になるかも知れないし、場合によっては日食などに興味をなくしているかも知れない。ともあれ木漏れ日の日食に生まれて始めて向き合ったのが今日であった。部屋へ戻り背広に着替えて、いつもの電車を一つ二つ遅らせてゆっくり事務所へと向うことにしようか。日食終了までにはまだ間がある。フィルター持参の、名残りの太陽の姿を見ながらの、事務所までに道すがらになりそうである。


                                     2012.5.21     佐々木利夫


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金環日食2012

2012.5.21、札幌の最大食分、84%