昨年3.11の東日本大震災から間もなく1年になろうとしている。冬本番の被災地の映像は、今年の特別に多い雪の中に埋もれていて被災者の今後の行く末とともに私たちにも途方にくれる思いを伝えてくる。そんな中で日本漢字能力検定協会が毎年世相を表す文字として選んでいる「今年の漢字一文字」に、昨年末「絆」の文字が選ばれた。人と人のつながりこそが日本人や世界をつないでいくのだとの思いが込められているのだろう。そうした選んだ人々の思いに水を注すつもりはない。
 むしろ日常的にそれほど使われることの少ないこの漢字の出番に、日本にもこんなにすばらしい文字があったのだと改めて新鮮さを感じさせられた。

 だがこの漢字が登場し始めたとたん、あっと言う間にこの文字は手垢に汚れ新鮮さを失ってしまうようになった。新鮮さどころか陳腐化し、どこか腐臭さえ感じるようになってきたのは、この文字にどこか申し訳ないような気がしてとても残念に思う。

 「きずな」本来の意味はそれほど慈愛に満ちたものではなかっただろう。恐らく二つをつなぐ、または牛馬をつなぐための単なる「綱(つな)」からきたであろうことは、特別な知識がなくたって想像できる。また、人間どうしに使われる場合でも「きずなを断ち切る」など用例もあるから、必ずしも肯定的な意味に限るものではなかったのかも知れない。それがどんな経過で人と人を結びつけるような、しかも善意や親切や友愛みたいなつながりにまで進化させてきたのかについて、私にはまるで知識が欠けていることは白状しなければならない。

 だが結果として「絆」には日本語としての特別な地位を意味を与えられるまでに進化していった。まあそうは言っても日常的にこの言葉が使われる機会はそんなに多くないから、そうした意味で特別な地位がかろうじて維持されてきたのかも知れない。それがどうだろう。昨年3.11の東日本大震災やそれに伴う原発事故を契機として、この言葉はまるでマジシャンの放つシルクハットからの鳩のように日本中を席巻することになった。たんにその言葉が独り歩きし始めただけではない。意味も中味もまるで変節させ、時に腐敗臭さえ漂わせて撒き散らされることになったのである。しかもそうした変節に、今年の漢字として選ばれたことも一層の拍車をかけることになった。

 もしかしたらそうした意味での「きずな」の使い方は、この文字の持つ本来の意味に戻ったのかも知れないが、でも少なくとも私が抱いていた「大切な日本語としての絆」の意味を、根本からないがしろにするような現象であった。
 震災後何ヶ月くらい経てからこの言葉が流行しはじめたのか分からないけれど、少なくともボランティアとか寄付などの行為についてではなく、たとえそれが被災地の復興に結びつくとの前提があるにしても、商業戦術の一つの手段として現れてきたように私には思える。

 「・・・家族同士で高額品を贈り、身近な人と過ごす時間を充実させる雑貨を買うことが『絆消費』ともてはやされた。お歳暮、福袋、おせちなどの商戦の取材で、主役は『絆』だった。たとえば服やアクセサリーを詰めた福袋は結婚相手を見つけるための『絆婚応援』。こたつと土鍋のセットは『家族の絆』。東北の名産は『東日本との絆』。長引くデフレの下、値の張る買い物は敬遠されている。そこへ『買うことで絆が深まる』という物語を示すと、固かった財布のひもが少し、ゆるむ。・・・」(朝日新聞、2012.1.17、記者有論、年末年始商戦「絆」の安売りが生む錯覚、経済部記者)。

 「絆」の語はこうした被災地への経済効果、自社製品や被災地産品の宣伝に利するだろう思われるなんにでも、あたかも私が子供の頃友達に投げつけて遊んでいた「ひっつきむし」(植物の種で鉤のようなもので衣服にくっつくもの・ヌスビトハギなど)の実のように様々な言葉にひっつきはじめたのである。そうした経済的な行為の動機に善意がないとは言わない。しかしそうした行為に「絆」の語を冠することで、私たちはあたかも行為そのものが「絆のあふれている行為」みたいに錯覚してしまっているように思えてならないのである。家族の絆、地域の絆、社会の絆・・・、あらゆる言葉に「絆」の文字は正義と善意の衣を纏いつつひっつきはじめたのである。

 そして私が「絆」のイメージにマイナーな思い抱くきっかけの極め付きになってしまった一つに、政党名にこの語が出てきたことがあった。昨年末に民主党を離党した数人が集まって新党を結成しようとの動きがあり、それが1月早々「新党きずな」として発足したことである。恐らく結成した仲間は、「きずな」の意味を十分に理解し、その名にふさわしい意欲を持っての政党名だったのだろう。
 もしかしたら私たちが今一番大切にしなければならないことの一つに政治があるんだろうと思わないではない。特に最近のように東日本大震災の復興が思うにまかせす、不景気が世界的規模で蔓延しているような時には特に大切だろうとも思う。それにもかかわらず、これだけ政治が信頼されなくなっている時代というのを私はこれまでに経験したことがない。歴史の中で利権にまみれ、権力に溺れる政党が闊歩していたことは珍しくなかったにしても、少なくとも支持政党なしとの世論調査結果が回答者の50パーセントを超えるような時代を私はかつて記憶したことがない。

 私自身がそうした政治不信にまみれているからなのかも知れないけれど、その政治が「きずな」の語を自らの政党名に掲げたことが一層政治不信を募らせることになってしまったのは不幸だと思う。とにかく私はこの名称に「がっかり」したのである。これで「絆」という、私の中で暖かい要素を持ち続けてきた中味が、商戦で泥にまみれ、とうとう政治に利用されたことで決定的に腐敗してしまったような気にさせられてしまったからである。

 もちろん「絆」の語が、本来持っていたであろう意味から磨耗していっていると感じるのは私の独断ではある。そのことは百も承知で言うのだが、例えば「悪」だとか「呪」、「怨」や「怒」などのマイナーなイメージを持つ漢字の、何と生き生きとしていることかとも感じてしまうのである。
 「絆」は例えばきずな音頭で踊ったり、きずな弁当やきずな丼、きずなラーメンなどを売り出したことによって、一層薄汚れ色あせてしまったのでないかと、つくづく思ってしまっているのである。その程度のきずなの意識で、互いが「つながる」ことができるなどと安易に思ってほしくないと思っているのである。


                                     2012.2.25     佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



乱発される「絆」