東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県名取市が、仮設住宅に居住している人のために無料の託児所を設けたそうである(2012.2.5、朝日新聞、「仮設住宅に無料託児所」)。報道によると長く避難生活を続けたことによる育児のストレスを減らすためのものでもあると市では言っている。
 私はこの措置そのものをどうこう言いたいのではないし、被災された人や仮設住宅での生活での大変さを理解できないというのでもない。

 ただこの記事を読んで、この名取市の施設のことではなく、最近多くの話題になっている「子育てがストレスになる」ことが、いつの間に当たり前のような市民権を得てしまったのだろうかとどこかで納得できない思いに駆られたのである。

 私は男だから母乳を与えることはできないし、わが子についての思い出だって今から40数年前のたまのオムツ交換や哺乳瓶の粉ミルクにお湯を注いだ程度のものでしかない。授乳やオムツの交換が育児のすべてを総括しているわけではないだろうし、いま流行の「イクメン」らしき関わりも少なかったように思うから、私の子育ては自慢できるようなものではない。

 だからこんな場で子育てについて一家言を呈しようとは思わないし、その資格もないだろうと感じている。ただそんなお粗末な我が身の経験からしか土台にできないのだが、親が育児の全過程にどんな場合も、優しく、穏やかに、慈愛に満ちて我が子に接しているとは思えないのである。それは育児放棄だとか子どもを虐待するなどを意味するのではない。夜鳴きする赤ん坊に困惑する思いや、いつまでもクズリ続ける赤ん坊の気持ちが理解できないでいる親の思いは私たちの子育てでも同じように経験したことだからである。

 それでも私は母親の赤ん坊に接する思いが、私たちが知る時代から少しずつ変化していっているように思えてならない。男は外で働く者、家庭と育児は女の役目だと言いたいのではない。ただそうは言っても、出産や授乳が「女としての性」に直接結びついている事実だけは認めなくてはなるまい。現代科学は性と出産を分離することを可能にした。精子と卵子が存在するなら、受胎や発育や出産は必ずしも母体である要件は必要とされなくなってきた。クローンの技術は、精子・卵子さえ必要ないことを示している。

 他人の腹を借りて出産をする代理母は現実のものになっているし、恐らく試験官ベイビーに代表されるような人工子宮の発想だって、もしかしたら実現しているかも知れないからである。でもそうした事実は、科学的に可能なだけであって、オス・メスによる生殖によって子孫を残していくというすべての生物が選んだ形態を否定するものではないだろう。そしてそれを産卵と呼ぶが出産と呼ぶかはともかくとして、生物の進化がメスの卵子の生育としての子孫という形をとっていることを否定することなどできはしないだろう。

 ただ私はこうした代理母のような考え方が、現実の母親の育児の観念の中に浸透していっているような気がしてならない。つまり、出産や育児は単なる生理現象にしか過ぎないとの思いが、女性そのものの意識の中に定着しつつあるのではないかとの思いである。

 そうした思いが全部の女性に浸透していっているとは思わない。でも、私はそうした意識を多くの子育ての中にどうしても見てしまうのである。
 その一つに授乳がある。それが母乳か粉ミルクかはともかくとして、赤ん坊にお乳を与える母親の姿を私たちは母性の一つの象徴として理解してきた。赤ん坊の全幅の信頼とそれを丸ごと引き受ける母性との余りにも慈愛に満ちた融合の姿として理解してきた。

 でも最近少し違ってきているように思えてきたのである。お乳を与える母親の姿が、どこかペットに餌を与えている飼い主の姿のように思えてきたからである。母乳を与える姿は、まさに天性の母親そのものであると私たちは信じて疑わなかった。だが、その母親の視線は赤ん坊の顔ではなく、ひたすらテレビに向けられているのである。授乳とはまさに餌を与える行為、食事の時間になっているのである。
 つまり母親は「授乳の時間」は無為な時間、無駄な時間、暇な時間であり、少なくとも自分にとっての時間の浪費であるかのように振舞っているように思えるからである。

 私のこうした考えは現代にそぐわないのかも知れない。性差の違いを出産や育児に求めるのは、時代遅れになっているのかも知れない。今の時代は「セックス」と「妊娠」と「出産」と「育児」をそれぞれ分離したものとして考えるようになってきた。それは単なる個々人の考え方や時代の変遷と言ったものにとどまらず、科学的にもそうした事実が立証されてきているからである。それは「人」が種として特殊なものではなく、一つの進化した生物に過ぎないことが明らかになってきたことにあるのかも知れない。人の死や出産などに、ことさらに「倫理」などという得たいの知れない枠をはめたところで、人もまた進化した猿であることに違いはないからである。

 確かに私たちは効率的に時間を使うことを人生の大きな課題として考えてきた。身の回りの多くの電化製品の発明や発達は、余暇としての時間をいかに生み出すか、その余暇をいかに効率的に利用できるかに執心してきた。また多くの料理番組は、「こうして調理すれば、手間をかけずにすませることができます」みたいな手段の開発にも力を注ぎ、かくして私たちはハード面でもソフト面でも「時間の効率的利用」を人生の目的としてきたのである。たとえその効率的利用が、ソファに寝転んでポテトチップスを口に入れるための時間を捻り出すためのものだとしてもである。

 自分が楽しめることのできる時間の獲得のために、それを妨げる様々を私たちは「時間の浪費」と呼んで、少しでもその浪費を削ることを身上としてきた。洗濯機に洗濯を任せ、食器洗い機に後片付けを委ね、削ることのできない通勤時間には読書をすることで浪費から排除することにした。

 だから育児に要する時間もまた、自分にとっての時間の浪費であると、今の母親は考えるようになってきたのではないだろうか。だとすれば、自分のための貴重な時間を奪っていくであろう子育ての時間はまさに浪費であり、その浪費していくことが耐えられないとするなら、子育てはまさにストレスそのものである。

 冒頭に掲げた名取市で仮設住宅に託児所を設けたのは、住民の要望の中に「室内で子どもと一緒にいる時間が増え、自分の時間がなくなった」との子育てのストレスを訴える声があったからだそうである(同記事、朝日新聞)。とするなら託児所の必要は、「子どもを預けて少しでも働きたい」との意味から離れて、「子育てはストレスである」ことの解消のためにもなりつつあるのである。

 いつから人は、子育ての時間が、自分の時間を食いつぶす浪費になっていると思うようになっていったのだろうか。妊娠を経験することのない男親にはなお更のことかも知れないけれど、母親とても妊娠や出産の事実がそのまま親としての自覚や認識につながるものではないだろう。親もまた子どもとともに少しずつ親になっていくと考えるのは少し甘すぎるだろうか。授乳やだっこや入浴やおむつの交換などなど、そうした機会を通じて親が子を見つめ子が親を見つめるまなざしが、子が成長し親がその子の親になっていく大切な栄養素になっていくのではないだろうか。

 昔から育児放棄や児童虐待はあったのかも知れない。だがあまりにもあっさりと、言うことを聞かないからだとか、泣き止まないからだとか、うるさいとか、遊ぶ時間が欲しいなどと言った理由での育児放棄が多すぎるような気がしてならない。それらをひっくるめてテレビを見ながらミルクを飲ませるような行為のせいにすることはできないかも知れない。それはそうなんだけれど、抱っこしている子どもと交わすまなざしの欠如みたいな習慣が、現代の育児ノイローゼや子育てストレスなどの原因につながっているように私には思えてならない。


                                     2012.3.14     佐々木利夫


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子育てとストレス