コーヒー片手にどうでもいいテレビを見ていたときのことである。毎日の食事を携帯で撮影して、それをブログで発表している人がけっこう多いとの話題になった。今はなんでもかんでも情報発信の時代だし、かくいう私の雑文だってそうした系譜に連なるものだろう。だから毎日の食事の写真が低俗で作文が高級なのだとは思わない。そうした発信できる環境の豊かさみたいなものが現代の私たちを構成しているのだとも言えるから、むしろそれが世の中だと割り切ってしまうことの方が妥当しているのかも知れない。

 そのことは別になんとも思わなかったのだが、そうしたブログへの発信についてアナウンサーが数人の出席者に意見を求めた中に、ある若い女優からこんな意見が出てきて少し気になった。
 ひとりで夕食を食べているときに友達から電話(もちろん携帯電話だろう)がかかってくる。メールか音声か分からないけれど、今時の連絡手段からして恐らくメールだろう。ともあれその携帯からは「いま、なにしてる」みたいな着信があったそうである。それで受信者は当たり前のように「ごはん、食べてるの」と返信したそうである。するとすかさず相手から「どんな、ごはん」との呼びかけがあり、彼女は携帯カメラで食事の写真を撮って「こんな、ごはん」と送り返したのだそうである。

 そしてテレビの彼女はこうした状況にこんなコメントをつけていた。「だからひとりで食べててもちっとも寂しくないの」。私はこの一言がどこか気になった。一人の食事というのは寂しいものなのだろうかと疑問に思ったのである。ひとりの食事が寂しいことだってないとは言えないだろう。
 昔の川柳だと思うのだが、こんなのを記憶している。「屁ひって、おかしくもなし独り者」。仲間や家族などとわいわいがやがや飲んだり食べたりすることが賑やかだろうことを否定はしない。

 でも賑やかな食事や飲み会が当たり前のことだと、この彼女は思いこんでいるのではないだろうか。彼女の職業は女優なのだから、わいわいがやがやの食事や生活などの日常は当たり前のことなのかも知れない。だとすれば賑やかでない食事など寂しくて仕方がないという理屈になるのかも知れない。その辺のところになると私にも必ずしも断定はできないような気がしないではない。

 それでも・・・、と私は思うのである。こんな風に言ってしまえば誤解を受けそうだが、たかが食事である。朝からひとりでいて、ひとりで朝飯を作り食べ、テレビを見るのもひとり、昼飯をひとりで作って食べる、そして外が暗くなってもそもそと動き出して夕食のインスタントラーメンを作ってひとりで食う。そんなときに「あぁ、今日もひとりだったな」などとひとりを寂しく感じることがあったところでそれが分からないではない。ただそれは寂しさが「ひとりの食事」に総合されただけであって、朝から会話のなかったことやテレビに相槌を打つ相手がいなかったことなどが集約されたかたちとして、「寂しいひとりの食事」になったのではないかと思うのである。
 そしてそんな集約された思いとしての「寂しい食事」だとするなら、そうした寂しさは決して携帯で食事の画像を送くるようなことで解消するものではないような気がしてならない。

 だから私はこのコメンテーターの話している「ひとりで食べててもちっとも寂しくないの」のメッセージに、どこか寂しさに対するどうしょうもない甘えがあるように思えてならなかったのである。そんなにあっさり「寂しい」なんて言葉を使わないで欲しいと思ったのである。

 そして同時に、もしかしたらまたしても老人の常習的たわごとの一つである「今時の若いもんは・・・」のくり返しになるかも知れないけれど、今時の若いもんはこれしきのことくらいに寂しさを感じてしまうのだろうかとも思ったのである。そしてそして、屋上屋を重ねることになってしまうのかも知れないけれど、もしかしたら本当の寂しさを現代人は失ってしまっているのかも知れないとも感じたのである。

 若者を含めた多くの日本人に蔓延している携帯依存症も、もしかしたらこうした寂しさをきちんと理解できないででいる症状の表れなのかも知れない。時間を措かずに返事の来るメールは人々から「待つ」ことの大切さを奪ったのではないだろうか。そしてその「待つ」ことの喪失は相手の意見を聞くための時間の喪失、つまり会話する時間をも奪っていった。もしかしたら人びとは、同じ部屋にいても対話することなくメールのやりとりで意思疎通を図っているのではないだろうか。しかも友達のいない状態は寂しいのであり、その寂しさに人は耐えられずにメル友を増やすことでその寂しさから回避しようとしているという。

 私は実はこの寂しさの変形は、今や人そのものの変形へとつながっていっているのではないかとさえ思っている。例えば病院で人が死ぬ。モニターにはさまざまな管でつながれた患者の呼吸や血圧や酸素フォワードの数値などが刻々と映し出されている。そのモニターを眺めているのは医者だけでない。ベッドを取り囲んでいる家族も同様である。だれも患者の顔を見ることはなく、ひたすらにモニターに映る次第に死へと近づいている数値や波形だけを見つめている。死を待っているわけではないだろう。でもそうした家族の姿はあたかも死を待っているかのようにさえ見える。

 やがて医者が臨終を告げ、そうなってはじめて家族はモニターから患者の顔へと視線を移し泣き崩れる。そうした風景は、回りに家族や医者が取り囲んでいながら私にはどこか孤独死の現場を見ているように思えてならない。その患者が臨終に際して多分意識はなくなっているだろうことは理解できる。呼びかけても、体をゆすっても恐らく何の反応もないだろう。
 それでも孤独死とは死に至るそのときに、その人の死を知ってくれる人が傍らにいるかいないかを基準にしているのではないだろうか。その孤独とは死にいく者が自らの死の訪れが迫ってきていることを意識しているかどうかに関わらず、その者の生との別離に抱くであろう寂しさに他者がどこまで共感できるかどうかにかかっているのでないだろうか。たとえ意識がなくても生との別離はきっと寂しいものに違いないと、そうした寂しさを確信として思い遣るこころが、孤独死をなくそうとの思いへとつながっているのだと思うのである。

 ところがこの臨終に立ち会う家族の風景には、死への旅立ちへの寂しさが独りではなく共々なのだとの思いよりも、あたかも死の瞬間を待っているような雰囲気が感じられてならない。旅立ちに感じるであろう寂しさに共感しようとする姿勢がまるで感じられないのである。

 そうした寂しさの変化は時代の変化によるものだとか、更には核家族化に伴う共同世帯意識の喪失などの一言で説明がついてしまうのかもしれない。それでも人と人との間からはいつの間にか触れ合いがなくなってしまったのではないかとの疑問は払拭できそうにない。

 そして寂しさもまた、他者との間に心理的な隙間なのかそれとも仕切りなのか、はたまた電波や信号などといった一種の物理的な隔絶によるものなのかはよく分からないけれど、「人そのものの思い」からは確実に変節していっているように感じられてならない。そしてそうさせている一因に私は、携帯電話もまた抜きがたく影響しているのではないかと思いを抱かずにはいられないでいるのである。


                                     2012.2.10     佐々木利夫


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個食は孤食なのか