実際の会話の例だったのか、それとも想像して作られた単なる造語による例なのか分からないけれど、日本語で一番短い会話だと言われている例文を聞いたことがある。「どさ」、「ゆさ」の二語である。どうやら東北弁による会話らしいが、会話による交流なのだからそれが会話として成立するためには、会話している時の状況や、イントネーション、会話者同士の親しさの程度などの要素が複雑にからんでくることだろう。この場合は隣近所に住んでいる極めて親しい間柄の二人の会話のようである。この二語の意味は「どさ」は「どこへ行くのですか」の意味であり、「ゆさ」は「風呂へ行くことろです」の意味だそうである。つまり「どこへ」、「湯へ」の意味だという解説である。

 日本語に限らずどんな言語体系にだって、時に主語を省略したり述語を抜いたりしても成立するような会話や文章が存在する例など珍しくなくあることだろう。国語の文法を学習している教室での会話ではないのだから、互いに通じるならどんな省略形を使おうがまさに自由である。増してや親しい者同士での「目は口ほどにものを言う」や「ボディランゲージ」などの「言葉ゼロのコミニュケーション」が存在することだって否定するつもりはない。

 ただそれと似たようなことが仲間と一緒になじみのスナックへ行ったときに起こったのである。まさに「互いに通じるなら主語・述語の省略は自在である」を目の当たりにし、「通じる」「通じない」がものの見事に対立した現場であった。それがタイトルに掲げた「勝った、巨人負けた」の一言である。

 その一言が日本語として成立していないとか、文法的に誤りであることを指摘したいというのではない。なんたって、その原因の最たるものが私のスポーツ知識の欠如にあることがすぐ明らかになったからである。

 私がタイトルの一言に驚いたのは、この一言の意味が理解できなかったことが原因ではあるけれど、それにも増してスナックのママさんとこの言葉を発した私の飲兵衛仲間との会話がちゃんと成立してしまったことであった。この一言の意味は、その後まもなく分かった。「勝った」と「巨人負けた」とが別の意味を持っており、しかもそれが共通する一つの状況を説明するものであった。

 まず「負けた」というのは、プロ野球の試合のあるチームの対戦結果を示すものであった。そのことだって野球の試合かどうかを示す言葉がないのだから分からないはずである。ただ次に続く「巨人」の語で野球に関する話だくらいの見当はついたのかも知れないし、それくらいの推理は私にも可能である。ところで野球の試合なのだから、勝負は二つのチームの間でなされるものだろう。そして「引き分け」というのではないのだから、どちらかのチームが勝ち、もう一方のチームが負けたことを意味しているくらい私にだって簡単に分かる。
 でもこの「勝った」には、まさに主語としてのチーム名が抜けている。良く分からないけれど、野球の試合なんぞ毎日幾組も行なわれているだろうから、その中から「負けた」の一言で特定の試合が分かるはずがない。

 ただ「分かるはずがない」の思いは私の独断であって、ママさんと仲間との会話では分かったということであろう。どことどこの試合でどちらが勝ったのか、負けたのかはそのときは聞いたのだが、残念ながらチーム名にも野球にも興味のない私にはまるで記憶に残っていない。なんでも日本に二つある野球集団からそれぞれ代表チームを選んで決戦試合をするための予選が行なわれていて、野球ファンにとっては毎日の試合はそれなり興味の的だったらしいのである。

 とすると「勝った」というのは、もしかすると「巨人」と日本一を争う相手になるかも知れないチームのことを示していることになるのであろう。しかも「勝った」で喜んでいる気配が感じられたことからすると、少なくとも二人に共通する応援チームであるか、場合によっては札幌や北海道にゆかりのあるチームであることが考えられる。

 ここまできて私にもやっと少し理解ができてきたのである。恐らく北海道にゆかりのあるらしいチームがこの日本一を決める試合の代表になるべく今日出場していたこと、また相手集団の代表を決める試合もまた同時に行なわれていて対戦相手の一方が巨人軍であったということである。その結果が応援チームが「勝った」であり、その決勝で対戦するかも知れない相手集団の代表候補になるかも知れぬ「巨人軍が負けた」ということなのであろう。ただ集団の代表を決める試合は一試合だけではないらしく、今日「勝った」からそのまま代表になれる、「負けた」から代表になれないというのとは違うようなのである。つまり今日の段階ではまだ途中経過ということらしい。

 会話なのだから、共通する地盤の上に立って始めて成立するものだろう。日本人は恐らく日常的には考えることすらないだろうが、「相手もまた日本語を話すこと」を当たり前のこととしている。道を歩いている時や商店で買い物をするときなど、または旅行で見知らぬ土地を訪ねているときでも、私たちは話しかける相手に「日本語が通じるかどうか」をあらかじめ考えることなどまったくないだろう。

 それと同じように特別な専門家会議や学術論文の発表などでない限り、人は「私の知っている程度のことは、相手も知っているだろう」ことを前提に私たちは生活している。そうした意味では、今回の私のタイトルに掲げた一言は、私の野球に対する知識がいかに乏しかったかを如実に示す結果になっただけのことなのかも知れない。

 とは言えその後に交わした仲間との話によると、どうも日本一を決めるシステムが私の理解の範囲を超えていることに気づいた。私の乏しい知識によると二つある集団はシーズンを通して個別にそれぞれのトップを決め、そのトップ同士が戦うことで日本一を決めるものだと思っていた。それが素直で一番分かりやすいし、確かそうしたルールで現実にプロ野球は動いていたような気がしている。

 それが今は各集団それぞれが上位3位までを決め、その3チームの中から特別に試合を行なってトップを決めるらしいのである。しかも集団の1位となったチームにはハンディというかボーナスとして勝ち点1つが最初から与えられるらしく、何やら分かりにくいルールがあるようである。だから理屈からするなら3位のチームがシーズン中の成績とは無関係に結果的に集団のトップになって日本一の決戦に挑むことができるらしいのである。

 ルールをどのように変えるかは、チームやオーナーや観戦者などの合意によるものだろうし、そうした事実を無関心な私が知らなかったとしてもそれを野球界の責めにするほどのものではない。ただそれにしても、二つの野球集団があるのだから、シーズン中の成績のトップ同士が日本一を争うとの昔のルールの方がとても分かりやすいように私には感じられてならない。こんな分かりにくい日本一を決めるルールの解説を仲間とママさんから親切(どこか得意げに感じられたのは私の被害妄想であることは一まず置くとして)に教えられ、心の中で「日本語で話せよ」みたいな気持ちを抱きつつ私の野球嫌いはいよいよ膏肓に入っていくようである。


                                     2012.10.25     佐々木利夫


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勝った、巨人負けた