毎度のことではあるけれど、今年もまたまた4年に1回のオリンピックがロンドンで開かれて、見るテレビ見るテレビ、メダルだけが目的であるかのような報道が過熱している。どのチャンネルを回しても同じ報道ばかりで、食傷を超えていささか食当たり気味になっている。確かにオリンピックを応援している人もいるだろうし、時に熱中している人も多いだろうけれど、世の中全部がオリンピック好きばかりでないぞと文句の一つも言いたくなる。

 そんなこと言うくらいなら見なければいいじゃないかと言うかも知れないし、それもまたもっともな話である。選挙の街頭演説のように窓の外から無理押しに聞こえてくるのではなく、スイッチ一つで遮断できるのだからそうすればいいと思わないではない。でもテレビの使命にはお笑い番組や芸能番組ばかりでなく、まともな(つまりわたし流に言うなら)オリンピック以外の報道もあるだろうと言いたくなってくる。

 そしてオリンピックがどうやら一段落してやれやれと思う間もなく、引き続き障害者オリンピックともいえるパラリンピックが同じイギリスで開催され、またぞろ同じような報道が繰り返されることになった。

 ところでニュース番組でオリンピック報道を見ていて気づいたのだが、同じNHKのニュースでありながら、各ニュース番組にはそれぞれ拭いがたい縄張り意識があるのではないかと感じられて仕方がなかった。これは別にオリンピックに限るものではないのかも知れない。なぜなら、同じようなケースはオリンピックだけでなく、インパクトの強い映像や報道では必ずといっていいほど起こる現象でもあるからである。それは、同じニュース映像が他の時間帯のNHKのニュース番組で何度も繰り返されることが頻繁に起きるからである。

 私がニュースを見る機会はNHKが多いけれど、自分の生活の流れに合わせているのだから、早朝や深夜の視聴はあまり関係がないし、時間帯によっては民放になる場合だってある。だから必ずしもきちんと確かめて言っているわけでないのだが、例えばNHKに限定しても、一日に放送されるニュース番組というのは、それぞれの時間帯によって別々の担当者というかキャスターを配置し、重複しないないように組まれているようである。それはもしかしたら単に時間帯だけでなく、たとえば週末や祝祭日などという区切りでも違っているのかも知れない。つまり、たとえば一人のキャスターがニュースを語る受け持ち時間というか、担当時間というのが一日一回もしくは、週一〜二回などに限定されているのではないかということである。

 恐らくそのせいでこうした結果になるのかも知れないが、同じ映像や場面が何度も繰り返されることにどうも違和感が残ってしまったのである。オリンピックに限るものではないと先に書いたけれど、オリンピック映像に特にこうした印象が強く感じたので、オリンピック報道にこだわって書くことにする。

 放映される映像が同じものになることに関しては、恐らく国際オリンピック委員会や開催国などが入場式や試合などに関して報道陣の自由な撮影を規制しているからだろう。詳しくは知らないけれど、参加国数が200を超え、選手数だけで1万人を超える大会である。これに各国の役員だの来賓だのを加えるなら膨大な人員となり、参加各国が自由に取材したり撮影したりすることを認めてしまったら、報道陣集団だけで会場は大混乱になってしまうだろう。だから一定のルール(撮影はオリンピック委員会の指定した者のみができること、希望する国は一定の料金を支払ってその映像を購入するなどなど・・・)を決め、そこが配信する統一された映像を各国は利用することになるのだろう。

 だから視聴者は各国が任意に撮影した大会映像を見ることは極めて少なく、どちらかというと「提供された映像」が中心になるであろうことが理解できないではない。だからオリンピック報道が何度も繰り返されると、同じ映像がNHKでも民放でも繰り返されることになるのだろう。だからそのことはいい。例えば入場式の映像が、NHKと民放とが同じアングルの、そして同じ編集の統一された映像になったとしてもそれはそれで理解できる。

 でも、例えばNHKなら一度放送した映像は、その事実をきちんと管理しておいて、その重要度にもよるとは思うけれど、可能な限り重複しないような報道に心がけてほしいと思うのである。こう思う背景には、私のスポーツ嫌いがあるのかも知れない。興味の少ない映像を何度も何度も繰り返し見せられることに対する抵抗感が、こんな思いを引き起こす原因になっているのかも知れない。

 その辺のところはある程度自覚しているつもりなのだが、それを考慮に入れてもなお、くり返しが多すぎるような気がしてならない。そしてそうなってしまう背景には、ニュースの担当者による縄張り意識が強く働いているからではないだろうかと勘ぐってしまったのである。
 つまり、同じ放送局内の他の報道番組が先に流した映像であっても、「私のニュース番組ではまだ流していない」との思いが先行して、視聴者が感じるであろう「またか・・・」との食傷さなんぞには思いを馳せることなく、それまま報道してしまうような気がするのである。確かにそうした繰り返される映像は感動的であるなどニュース性の高いものが多いだろう。場合によっては政治や経済や国際問題など、国民に繰り返し周知させる必要があると感じるようなテーマだってあるかも知れない。

 だからそうしたテーマの中には、視聴者の好悪や興味に関係なく、たとえ嫌われ飽きられても報道する必要の高いものだってあるだろう。そうした客観性の理屈が分からないわけではない。でもそうした「必要性」の中に、例えば「多くの人が喜ぶであろう感動」みたいな基準は含まれないのではないだろうかと思うのである。そしてオリンピック報道がまさしくそうした例の代表であるように思えてくる。日本選手の堂々たる入場行進、メダル獲得を賭けた息詰まる決勝戦などなど、多くの人がその場面に己の興奮や感動を重ねることだろう。そうした自らの感動をテレビの映像に重ねたいとする視聴者の気持ちが理解できないではない。

 定年前に勤めていた職場に、負けた翌日はどことなく機嫌が悪くなると思えるほど熱心な野球の巨人軍ファンがいた。彼の話によると、前夜の試合をテレビ中継で見て、ひいきのチームが勝ったときには、その後のスポーツニュースで繰り返し余韻を味わい、翌日の新聞で更に勝利を確認し、駅の売店でスポーツ新聞を買ってまでその勝利を味わうのだそうである。恐らく彼にとって昨夜の勝利の快感は、何度繰り返しても飽きることなどないのだろう。

 そうした人がいるだろうことを否定はしない。オリンピック入場式の感動を繰り返し味わいたいと思う人がいたところでそれを批判しようとは思わない。でも、テレビを見ている人の全部がその感動を何度も繰り返し共有したいと思っているわけではないのである。視聴者の中には、オリンピックにまるで興味のない者もいるだろうし、入場行進を見て「ああ、日本も参加したんだ」と一度見るだけで満足する者だっているはずである。

 そうした多様化されている視聴者に対して、番組のスタッフはどこか感動を強制するような形で同じ映像を流そうとしていると感じられてならない。しかもその番組ではその感動をまだ一度も放映していないのだから、視聴者もその感動を知るのはこれが最初ではないかとの思いを、どこかで錯覚して重ねているいるように思えてならない。そしてニュース番組は特に3日も4日も経った後の報道ではニュース性が薄れてくるし、速報こそが報道番組としての責務である。

 かくして、恐らくその日の未明から、感動するであろうとスタッフが錯覚したニュースが、同じ映像を使って、何度も何度も繰り返されるのである。見ようと思う人も見たくないと思う人も存在することなど、はなから頭にないのである。もちろん、視聴者も自衛はする。なんたってチャンネル権は自らの手中にあるのだから、リモコンを握った指先一つに選択のすべてがかかっている。スイッチを切るか、チャンネルを変えるか。だがテレビに毒されてしまっている現代人、そして新しいニュースを求めている現代人にとって、「テレビを切る」という選択肢はとても難しい。

 やんぬるかな。チャンネルはどこもかしこもオリンピックだらけである。しかも同じ映像のオリンピックが、時間構わずあらゆるチャンネルに氾濫しているのである。ここに至って男は、ようやくリモコンの「切る」ボタンを押すのである。そしてあたかも依存症にでもなっているかのように、数分でまたスイッチを入れるのである。そしてそして、未だ続いているオリンピックに、ため息をつきつつ何度目かの「切る」ボタンへと指を運ぶのである。


                                     2012.9.25     佐々木利夫


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