愛読した記憶はないし、どちらかと言うなら嫌いな部類に入る作家に三島由紀夫がいる。1970(昭和45)年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地で隊員にクーデター決起を演説し、叶わないと知るや割腹自殺を図って45歳の生涯を終えた作家である。彼の作品は「金閣寺」や「仮面の告白」、「潮騒」くらいしか読んでいないから、どちらかと言うと興味の薄い作家である。

 だが三島由紀夫の書いた文章の中でどこか気になっている部分がある。それは彼が自衛隊にたて込もった時に、隊員に向って配布した「檄」と題する文章の中の一言である。「檄」は自衛隊員にクーデターを呼びかけるいわゆる檄文だから、かなり過激な内容でありかつ長文である。その内容は私にはとてもついていけないものであり、彼のバルコニーからの演説を聞いた隊員が誰一人としてその呼びかけに同調しなかったことは理解できる。ただ私はその檄文の後半に書かれていた「・・・生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。・・・」の一言がどうにも気になっていた。

 彼はここで「命」と「魂」とを別次元のものとして捉えている。もちろん彼の言っている「魂」とは、私たちが無意識に抱いているものとは違って、もっと国粋的で天皇崇拝に近いものであろうことは檄文を読むことで分かってくる。だからそうした意味での「魂」の意味が気になるということではない。ここで宗教論を交わそうとは思わないが、でも私たちは昔から人が「魂」を持っていることを信じてきたのではないだろうかということに改めて考えさせられたのである。そして現在私たちはそうしたことどものことごとくを、迷信であるとか非科学的という観念の中に一くくりに押し込めてしまうことで生きているのではないかと疑念が湧いたのである。私たちは「魂」を命とは別な空想的なもの、怪談であるとか妖怪の世界の存在とすることで自分自身を納得させてきたのではないかと思ったのである。

 「死してなお生きる意志」なんて言ってしまうと、どこかそのままで幽霊や妖怪じみた気配が漂ってきそうだが、「今在るものが無くなる」ことと「今在るものが在り続ける」ことの対立の中に、人は親しいもの死であるとかやがて我が身にも訪れるであろう自らの死を見つめてきたのではないだろうか。
 「死とはこの世での成長の最終段階である。死によってすべてが滅びるのではない。死ぬのは肉体だけである。自己、あるいは魂(どう呼んでもかまわない)は永遠である。気持ちの安らぐようなかたちで、人それぞれ自由に解釈すればいいのである」(続・死ぬ瞬間P316、E・キューブラー・ロス 著、読売新聞社)とまで私が納得しているわけではない。また「命に限りはあっても、人の心や魂は『永遠』を刻むのではないか」(劇作家 山崎誠助、2012.10.31、朝日新聞天声人語より)も私の思いとは少し違うような気がする。だが人々の生活や世界の宗教は先人の魂の存在を生き残る者の身の裡に宿すことで存続させてきたのではないだろうかと思うのである。

 私は長く税界に身を置き、税法という法律のなかで自らを律してきた。それはまた同時に税法だけに限らず、法治国家として立法、行政、司法という三権分立を信頼しそうした世界へ己を委ねることでもあった。そしていま税理士として引き続き税法という規律の中にその身を浸している。

 そうした法治国家としての社会の構造を私の中に存在させていることを疑問に思うことはない。ただ、世界がどことなく殺伐としてきている現実を前にすると、私たちの世界から「掟」という長い伝統や生活の中に息づいていた「しきたり」とも言うべき貴重な何かが消えてしまっているのではないかと、ふと考えさせられたのである。
 法治国家の規律は法律を守ることにある。法律を守るということは、その前提として法律の存在が不可欠であり、それは別に国会で成立した法律だけに限るものではない。法律から委任された政令や省令、地方自治体が制定する条例なども法律の分野に含めていいだろう。そして人は決められた法律に従って行動することを事実として求められ、違反した場合はそれも法律に書いてなければならないけれど決められた罰則が適用されるのである。

 だがそうした「法律を守る」、「違反したら罰せられる」との社会の流れは、「法律がなければ行動が規制されることはないし、また罰せられることもない」という風潮を生むことになった。それはまた更に増幅して「法が規制していないことはやっても構わない」、「やったことのどこが悪い」とまでの思いを人々に植え付けるようにさえなっていった。それを法規制と脱法とのいたちごっこと呼べばいいのか、それとも法治国家としての個人の尊厳や自由や人権の勝利と呼ぶべきかは分からない。ただ事実として「法のないところ規制もなし」、「何をやっても構わない」が世の中に跋扈することになったことは事実である。

 ただ私は、法と社会生活の隙間を埋め、もしかしたら法を生み出していく土壌の役目を果たしているのが、先人の知恵を引き継いできた私たちの「生きていること」だったのではないだろうかと思えるようになってきているのである。個々人として死は絶対的である。でも肉体的な死を超えて先人としての意思を後世に伝えることが「魂」の意味であり、そうした魂の存在を信じることの中に私たちは信仰であるとか祈り、もっと具体的には常識などというものを認めてきたのではないだろうか。そして先人の意思の伝達が私たちの中に「掟」として残ってきたのではないか、そう思うのである。

 だから「掟」というのは、もしかしたら「怠惰」とか「飽食」などと言った「たっぷりとした満足」から生まれることなどないのかも知れない。そうした境遇からではなく、例えば「ひたむき」だとか「一生懸命」とか「死に物狂い」などと言った背景がないと生まれたり育たったりしないものなのかも知れない。

 そして「掟」に対峙するのは「罰」ではない。それは個人を超えた意思への「畏れ」である。私たちは「お天道様が見ている」とか「祟りがある」とか「幽霊」などをどこかで信じてきたのは、自分の中に先人から受け継がれてきた魂に対する畏れがあったからだと思うのである。それは伝承や伝説、説法や不可思議な自然の流れの中にまで及び、個としての己のみならず社会にまで一つの規律を生み出していった。

 そうした大切な規律を私たちはあっさりと捨ててしまったような気がしてならない。それは決して法律で代替できるようなものではなく、「伝えられる」ことの過程でしか生き残ることのできない貴重品だったような気がする。失うことはたやすく、取り戻すことはとても困難かも知れない。それでも、「魂」は先人個々の思いではなく共通した先人の思いの集合として、私たちが大切にしていかなければならないものなのではないだろうか。「見えないものは信じない」風潮が、私たちの未来を暗くしている。


                                     2012.11.2     佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



掟、そして畏れ