「国民がパニックに陥るおそれがあるから・・・」、「社会をパニックと混乱に陥れるから・・・」、だから誰にも知らせない、こんな言い訳がいつの間に通用するような世の中になってしまったのだろうか。
 私はこうした言葉を映画やドラマでしか知らなかった。それは恐らくこうした会話が現実的な現象として交わされるのは、想像でしか過ぎないけれど、権力のある者とその周辺をとりまく数人との密室での出来事だろうからである。つまりこうした言葉は、ある事実が「知られること」そのものを封じようとするのだから、その情報が入手できた当事者以外に知らされることなく密やかに発せられるであろうことは、事の性質からして当然なのかも知れないからである。

 ところが、最近こうした決定が現実に存在していたとの事実を、当事者自らが公表する形で知らされたのは驚きであった。ドラマやバーチャルの世界ではなく、私たちのすぐ傍で、しかもそうした事実が秘密として暴露されたとか過去の公文書などの公開で知らされたというのではなく、現在進行形の事件について当事者が自ら、しかもそのことが当然でもあるかのように決定されていたことを知ったのである。
 それは昨年3.11に起きた福島第一原発事故の翌12日、午後3時半過ぎに起きた原子炉水素爆発の映像に関してであった。その映像を福島中央テレビから入手した日本テレビは、どの程度のタイムラグなのか定かではないけれど、とにかくその情報の公表を遅らせたのである。

 「・・・福島中央テレビは速報性を重視した。日テレにもすぐに映像は届いていた。だが、何が起こっているか、その分析がない中で映像を流すと、パニックが起こるのではないかと危惧した。映像を専門家に見てもらい、解説を付けて放送した」(2012.1.31、朝日新聞、プロメテウスの罠、発言者は日テレ広報担当副部長になっている)

 本来こうした第三者に知らせないとする発想は、秘密であってこそ意味があるのであって、離反者などによる内部告発でもない限り私たちに知る機会のないのが普通である。だからこの新聞記事が自らの意見としてこうした事実を公表したことには敬意を表さなければならないのかも知れない。それでも私はこの新聞記事の内容になんとも名状しがたい違和感を感じてしまったのである。

 私は水素爆発の事実が確認できなかったから遅れたというのなら分からないではない。速報性も大切ではあるけれど、同時にそれが事実であることは何よりも確かめるべきだからである。また当事者以外の名誉を傷つけるなどの恐れがあって内部で検討することも、公共の利益と他者の名誉を守ることとの均衡の意味からも慎重さが望まれることだってあるだろう。だがことは原子炉の爆発であり、疑う余地のない映像である。パニックが起きたとしても住民に知らせるべき当然の映像ではないのか。

 にもかかわらず、しかも「福島中央テレビは日テレに全国放送するよう何度も要請していた」(同上、朝日新聞記事)にもかかわらず、この映像は流されなかったのである。寸秒を争う放射能から避難するために必要な住民の時間、国民が知るべき大切な情報をこのメディアはあっさりと奪ったのである。

 そして私はその事実を秘匿したことの重大性にこのメディアが少しも気づこうとしてしていなことが、どうしても許すことができなかったのである。それはこの記事が少なくとも「視聴者がパニックを起こすことを心配して情報を公表しなかった」との事実を、メディアとして自己批判なり反省や謝罪として取り上げたのではなかったからである。この記事には意図的に情報の公表をしなかったことについて、あたかも「パニックの恐れが起きる」ことを当然の前提として、その故に秘匿したことは正当なのだとの考えについては何の意見も検証も示されていないのである。

 メディアはそれが事実に基づく報道なら、他者からの干渉を極端なほど嫌悪するではないか。その嫌悪は民主主義の基本に反するほどの重大な干渉であり、決して許されることのない国民の知る権利への侵害であるかのようにさえ言う。
 昔からメディアが神がかり的に信仰している言葉がある。恐らく外国の著名な政治家が語った言葉だったように記憶しているが「私は君の意見には反対だ。だが、君がそれを主張する権利は、命をかけて守る(2012.2.25、朝日新聞、社説「前原さん、それはない」より引用)、である。

 言論の自由がメディアの持つ基本的な命であることは疑いのない事実だろう。そしてメディアもまたそれを獲得してきた歴史をそのままメディア自身に対する勲章でもあるかのように信じていることを否定はしまい。もっともそれを水戸黄門の掲げる印籠のような神格化されたものとする姿勢には、いささかのはしゃぎ過ぎを感じないではないにしても。
 ただ今回の報道には、その神様をあっさりと葬り去ることになってしまったのではないかと私は感じたのである。隠したのならまだいい。その事実を私が知ることはなかったのだから。でもこんなふうに公表したことに、そしてその公表内容に自らの報道姿勢に対する反省のかけらも含まれていなかったことに、私はメディアの自殺を見たように思ったのである。

 私たちは結局、メディアから情報を得るしか方法がない。テレビ・ラジオや新聞・雑誌ばかりでなく、インターネットも含めると、私たちは情報の洪水の渦中にある。そうした洪水の中から正しい情報を選び出すのは私たち自身個々の責任だと言われてしまえばそれまでのことだけれど、基本にはメディアへの信頼がないと選択もまた成立しないことになってしまう。

 メディアは事実のみを報道すべきであって評価や意見などを委ねるのは誤りではないかと感じたこともなかったわけではない。だがどんな報道にも「事実のみの報道」は不可能であろうことことを、少なくとも私は学んできた。限られた時間枠や紙面の中で、どの事実を報道するかの選択そのものの中にだってある種の評価や見解が示されてしまうからである。
 だとすれば、メディアは、少なくとも国民や社会を誘導しようとするような(たとえそれがパニックを避けるためとの善意から出たものであったとしても)、そんな驕りは消してしまわないと、人はますますメディアを信頼しなくなっていくのではないだろうか。だから私はそうした驕りをこの記事に感じ、それをメディアの自殺と呼んだのである。


                                     2012.3.3    佐々木利夫


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パニックと言い訳