「最近のテクノロジーはこんなにも素晴らしいのです」とスマホやテレビや洗濯機、そして自動車にまで内蔵されているコンピューター機能が宣伝されるようになっている。そのテクノロジーとは、つまるところマシンが人間に近づいていることの宣伝でもある。そしてロボットの形態も産業マシン的なものから動物やサイボーグスタイルへと進化していっていることが喧伝されるようになってきている。最近のそれは「会話」に集約されるような動きを見せているようだ。

 まあ、溶接ロボットが作業員と会話したところで特に不都合はないのだが、マン・マシンの会話だとするなら動物型のボディランゲージの発達や人型ロボットとの会話のようなスタイルのほうが理解しやすいものになるだろう。

 最近そうしたマン・マシンの接触に関するテレビ番組を何本か見る機会があった。アザラシや犬などのぬいぐるみのロボットが介護施設を訪れて老人を慰めるのだそうである。ここでのキーワードはすべて「かわいい」である。それがアザラシや犬の本性からの仕草である必要はない。目をぱちくりさせたり、ふわふわした体を摺り寄せるような動作などに代表され、そして時に発する鳴き声もアザラシの声である必要はないのである。

 またロボットは人型にまで発展し、舞台に登場させて俳優と一緒に会話し演技する。それはきちんとした会話になっていて、芝居として成立しているのである。その巧妙さに観客は喝采し、笑い、共感し、そしてその人間らしさに驚嘆する。

 そうした動物や人間もどきの動作を製作者は「癒し」と表現する。介護施設の老人も観客もそのことに癒されるのだと製作者は胸を張って答え、そしてこうしたロボットは今後ますます発達していくだろうとばら色の未来を語る。

 アイザック・アシモフはSF小説のなかで人型ロボットを空想し、いわゆるロボット三原則を思いついて「わたしはロボット」という小説の中で次のように書いた。

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また人間が危害を受けるのを何も手を下さずに黙視していてはならない。
第二条 ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし第一条に反する命令はこの限りではない。
第三条 ロボットは自らの存在を護(まも)らなくてはならない。ただし、それは第一条、第二条に違反しない場合に限る。


 つまりこうした機能を持たせることで人間とマシンとの共存を図ろうとしたのである。

 だが私はそれはあくまで物語の世界だけのことであって、ロボットは決して人の心を持つことなどないと考えている。それはあくまでも「人や動物に似せたマシン」にしか過ぎないと思っているからである。

 人がマシンとどこが違うのかは、突き詰めていくととても難しいのかも知れない。単純には脳細胞の総合的な働きが人間を人間たらしめていると考えるのが、「個人としての人」を考える上で一番納得できる解釈であろう。だとするならそれは百数十億とも言われている脳細胞そのものなのか、それともシナプスだとかニューロンなどの連結や回路などの神経伝達システムによるものなのかはさておき、一種の総合作用であり、つまるところそれは一個の脳細胞の集合という電気信号に置き換えることのできる作用なのだろうか。ならば人としての脳の機能や作用もまた、コンピューターのメモリーの増大、稼動のための電力の供給、そしてメモリー同士の連絡網の組み立てや情報伝達の速度の問題に帰するのかも知れない。

 こうした考えを延長していくなら、人間の抱く芸術や創造や政治や経済活動などなど、あらゆる行動や意思のすべてがプログラムとして擬製されるとする考えもそれほど荒唐無稽ではないだろう。だから、忘れるという機能であるとか、ひらめきといった発想もまたプログラムで擬製できるのかも知れない。とするならその行き着く先が究極的には脳とはコンピュータープログラムであるとの考えになっていくのかも知れない。

 だがそれはまだ空想の世界での出来事であり、少なくとも現状は単なる設計者の考えた範囲内での人真似、動物の真似を超えてはいない。たとえそれを、「癒し」であるとか「笑い」などと呼んだとしてもである。今はまだプログラマーが「こうすれば受け手は癒しと考えてくれるだろう」、「こんな対応をすれば相手は笑ってくれるだろう」と考えた設計図に示された範囲内での行動でしかないからである。

 ロボットあざらしは、エネルギーである電気の供給者に向って餌が欲しいと願って体をすり寄せたのではない。単に体をすり寄せる動作に似せて人間が作り上げたものである。芝居に参加したアンドロイドが、向き合った相手に対して「なんでやねん」とジョークを飛ばしたとしてもそれは相手の話を理解したからではない。舞台裏の担当者が無線リモコンを使って汗だくで操作ボタンをリアルタイムに作動させているだけのことでしかないからである。

 それを「心がない」と言い切ってしまうことに躊躇がないではない。「心とはなんだ」との問いに対する私の確信がまだきちんとできていないからである。繰り返しになるけれど、沢山のメモリーを使用した緻密なコンピュータープログラムによる一つの選択結果、右足を出すとか声を出す、眉を上げるなどの出力情報と、脳細胞の働きとのきちんとした区分けが私の中で整理されていないことにあるのかも知れない。

 かつて熱心に見ていたテレビのSF番組にアメリカで制作されたスタートレックがあった。宇宙戦艦エンタープライズに乗り込んだカーク船長による宇宙冒険活劇である。そんなドラマの中に、コンピューターに向って「円周率を最後まで計算せよ」と命令する場面のあったことを思い出す。コンピュータはこの命令に従うものの終わりのない無理数の罠に落ち込んでぶすぶす煙を出して機能停止してしまう話であった。

 恐らく「マシンは人間の命令に従わなければならない」という命題と、「答えの出せないテーマが命令された」という矛盾のなかで自己崩壊していくという、いかにもマシンが人間っぽい動作をすることに快哉があったからなのだろう。この話はマシンとしては荒唐無稽である。悩んだ末に煙を出してショートしてしまうなんぞは、決してありえない話である。
 「忠たらんと欲すれば考ならず。考ならんと欲すれば忠ならず」の間で懊悩し、自らの死をもって解決しようとした武士の世界に共通するかのような、コンピューターとはまるで縁のない時代錯誤の物語である。

 でも、私はこんなところに現代のマシンの限界を見る。どんなにアザラシに似せても、どんなに人間に似せても、どんなに動作や会話がそっくりになっても、「叩いても痛がらない」のである。「切っても血が出ない」のである。恐らく一定の刺激値を超えたら「痛い」と声を出せるように作ることはできるだろう。腕を傷つけたら赤い液体が流れるような仕掛けを作ることはできるだろう。だがそれは犬や私たちが「痛い」と悲鳴をあげることとはまるで違うのである。

 そんなにあっさり「魂」なんて言葉を使ってはいけないのかも知れないけれど、私たちの回りには動物もどき、人間もどきが跋扈しだすようになってきた。そんなバーチャルに囲まれた世界に浸っていると、人はいつの間にか「人」であることを忘れてしまうのではないだろうか。人は「他者の命」そのものを、理解できないようになってしまうのではないだろうか。
 カブトムシの脚をもいで、それを接着剤でつなげようとしている子どもの話を聞いたことがある。接着剤でつなげようとしていることに批判めいたことを言いたいのではない。脚をもいでしまうことに命を感じていない子どもの姿に、そしてそれが接着剤で復活すると信じている姿に、バーチャルの浸透と私たちの底知れぬ不安と恐怖に包まれた未来をかい間見たような気がしたのである。


                                     2012.12.8     佐々木利夫


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ロボットとの会話