少なくとも私は、新聞記事は新聞と言う組織としての意見を示しているのではないかと長く考えていた。もちろん組織と言ったところで、それは人が作り上げていくのだから意見が変っていったり揺れることだってあるだろうし、現在イギリスで話題になっているように情報を得るために盗聴という犯罪にまで及ぶ場合のあることだって知らないではない。でも新聞記事とは新聞の意見ではなく、記者個人の意見として考えるべき場合もあるのだろうかと、ふと違和感を抱くような場面にぶつかってしまった。

 「2007年秋に政治部に配属され、・・・昨年暮れ同僚と2人で連載『民主党政権 失敗の本質』の取材をはじめた。・・・私は、個々の政策を早く、詳しく伝えることこそ、『生活者目線』だと疑わなかったが、人々の生活がどう変るのか、変らないのかというリアリティーは乏しかった。実態は、自民党との対立軸になるか、有権者がどう評価しそうかという『政治家目線』で報道を重ねたのだった。・・・(今後は)連載取材で見えた私の『失敗の本質』を肝に銘じて追いかけたい」(2012.4.24、朝日新聞、記者有論、民主党報道 私が『政治家目線』だった)

 政治部に所属している女性記者の反省の弁である。私はこの記事を読んで、そんなにあっさりと「私の失敗の本質を肝に銘じて・・・」などと紙面で堂々と反省してもらっては困ると思ったのである。自宅のベッドの上でひっそりと、髪かきむしり、身も世もあらぬほどに煩悶するというのならまだ分かる。でも、その反省を記事として発表することなど言語道断ではないかと思ったのである。

 もちろん記者と言えども人である。個性を持ち、自らの意思を持ち、また考え方を持つ人であることを否定はしない。だから時に誤った行動をとることだってあるだろうし、それを自省し、繰り返してきた失敗を自らの中で淘汰しながら成長していくものなのだろう。そうした意味での反省や気付きの思いに否やを言いたいとは思わない。でも彼女のとった行動は、「私個人」の範囲に止まるものではないことがどうにも気がかりなのである。なぜならその言い分は「反省するような目線で報道を重ねてきた」こと、つまり新聞記事として紙面に掲載されてきたことを意味しているからである。

 たとえば私はこうしていくつもの雑文をホームページで発表している。その内容が仮に読むに耐えない文章だったとしても、または反社会的な意見になっているとしても、それは少なくとも私の個人としての意見である。つまりどんなに凡庸であろうとも、また共感してくれる人などひとりもいないような独善的な意見であろうとも、それはまさに私個人の問題である。
 だからそうした意見に対してある日私が間違いだと気づいたとき、その反省を記すことに何の問題もないだろう。「これまで私はこんな視線でエッセイを書いてきた。だがそれは間違いだと気づいた。今後は○○ような視線で書いていきたい」と考えたところで何の抵抗もないだろう。仮に私の間違った視線によって書かれた文章に影響され、読んだ人の人生を狂わせることがあったとしてもである。

 しかし、新聞の記事はそうではないと、少なくとも私はこれまで信じてきた。新聞が事実だけを書いていると思っていたわけではない。社会に無数に存在している様々な事実の中から、ある事実を選択して新聞に掲載する一方である事実は捨ててしまう、そうした選択そのものの中に既に見解というか意見が含まれてしまうだろうからである。

 そうした選択の程度や違いなどについては、例えば新聞週間などの特集で、同じ事実に対して新聞によって異なる見解や内容の軽重があると対比されていることなどからも分かる。時に私たちは、この新聞は右寄りだとか左寄りだとかなどの傾向を抱いてしまったり、ゴシップ誌だのコミック誌だのと評価する場合だってある。

 だから「新聞は公器である」みたいな前提を、無制限に認めようとは思わない。それでも私は新聞記事には、ある種の「公平な評価を前提に書かれている」との思いを抱いていたのである。もちろん個人としての記者が取材し、文章にまとめた結果が記事として掲載されるであろう新聞の編集過程を知らないではない。それでも新聞が購読者に届くまでには、個人の書いた文章が佼成なり編集を通じて組織の意見として成熟していくものだと思っていたのである。それを成熟と言うのは褒めすぎかも知れない。場合によってはオリジナルが磨耗してしまい、陳腐で俗な記事になってしまうことだってあるかも知れないからである。

 それでも出来上がった記事は新聞の顔であり、新聞社の組織としての意思であって、決して個人の見解ではないだろうと思うのである。今回の記事のように、記者個人の見解を述べるような記事があってもそれはそれで批判はすまい。記者が新聞社の組織としての意見と常に一致するとは限らないからである。

 それでも私はあえて言いたい。少なくとも日本の新聞の記事は、取材した記者を特定して発表することは極めて少ない。しかも、特定の記者の個人的な見解であるとの断り書きをつけた記事など皆無であるような気がしている。つまり記事の多くは個人ではなく、新聞としての意見だということである。

 だとすれば、仮にこの記者の言うこと、つまり「これまで政治家目線で取材していたことは誤りだった」との反省は、そのまま政治化目線という誤った目線での記事が新聞記事として掲載されてきたことを意味している。もしそうでなければ、彼女の取材してきた記事は編集者から「お前の記事は政治家目線だ。もっと生活者目線で書け」と指導され、新聞記事として掲載されることなどなかっただろうからである。そしてそうした政治家目線の記事が新聞に載らなかったなら、彼女が自らの取材方針が間違いだったと反省するような記事を書くこともなかっただろう。

 だから彼女はこの反省記事を書くべきではなかったのである。もし書いてあることが事実であるとするなら、その反省は彼女個人の思いであるにとどまらず、彼女の(反省するような内容を含んだ)記事を、新聞の記事として掲載し続けてきた新聞社の反省でもなければならないからである。
 そしてそして、もしそうだとするなら、この反省は彼女のこんな小さな反省文ですませるようなことではない。新聞社そのものの体質を変えるような大きな反省でなければならないと思うのである。この小さな記事は、新聞社が政治家目線で記事の編集をしてきたことを間接的に認めたことを意味しているのであり、それを生活者目線に変換しようとしている姿勢を一女性記者の反省文に糊塗したとんでもない記事であることをも示しているのだと思うのである。

 それともそれとも、こうした反省は一記者の身勝手な思いの中に埋没させればいいのであって、新聞社としてはこうした記者は更迭し、これからも依然として政治家目線で書くような記者を新たに配置することで反省しようなどという気はさらさらないのだろうか。


                                     2012.5.1     佐々木利夫


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