私がスポーツにまるで興味がないことは、ここへしつこいほど繰り返し書いてきた。とは言っても中学生・高校生時代には部活などを通じて水泳や体操を比較的熱心に取り組んできたこともあるのだから、最初から嫌いだったわけではない。だからスポーツを毛嫌いするまでのことはないと思うのだが、大人になってからはやるのも見るのもまるで無関心になってしまっている。どうしてこうなったのかを色々考えたのだが、体を動かすことそのものがどちらかと言うと億劫になっていることが一番の原因かも知れない。ただそうは言っても、それが「見るのも嫌い」に結びつくことには、どこか解せないものが残る。

 それで更に考えてみたのだが、最大の原因に私が様々なスポーツのルールを知らないことがあるのではないかとの考えに達した。一人で気ままにジョギングしていのるのとは違って、他者と競うとか勝敗を決めるという場合には、どうしたってルールが必要である。例えば走るにしたって、「どこまで」とか「休まずに」などは、それを規則と呼ぶほど厳格なものとして互いを拘束するかどうかは別にして、少なくともそうした決まりは一つの約束として共有すべきものだろう。

 そしてそのルールは勝敗や優劣を公平に判定するための手段となる。そしてそのルールに反した行為は、それを「ずる」と呼ぶか「違反」と呼ぶかはともかくとして、結果が公正でないことの証しとなるものだろう。

 かつて現役時代、職場にアイスホッケーのチームがあった。職場の管理者として、名誉会員の一端に名を連ね、何度かご愛嬌にゲームに参加させてもらったことがある。いでたちこそ選手そのもののスタイルではあるが、スケートなどご幼少のみぎりに僅か経験したくらいなので、氷上での移動は滑るどころかよたよた歩き程度の惨憺たるものであった。
 それはともかくとして、練習にしろ試合の形式でゲームを進めていくのだから、審判員らしき人から基本的なルールの説明があった。だがそのルールの内容がまるで分からなかった。相手のゴールへステックを使ってパックを打ち込んで得点を得ることは説明されなくても分かっていた。だが「パックがどの位置にきたときは選手はここに居てはいけない」などなど、それぞれに理屈はつくのだろうし選手なら誰でも常識として知っていることなのだろうが私にはまるでそのルールが理解できなかった。

 そのことはいい。私が理解できないこととスポーツとして社会が承認していることとはまるで無関係だからである。ただもう一言言わせてもらえるなら、サッカーや野球などなど、世界にはさまざまなスポーツがあるし、ゴルフをスポーツと呼んでいいのかなども私にはよく分かっていないのだが、それら様々のスポーツに使われている用語が、やたらと横文字が多いことはどうにかならないのだろうかとつい思ってしまった。
 そのスポーツが好きだから、そのスポーツに関連する用語もまた自然に理解できるようになる、のかも知れない。また逆に好きでないゲームは興味がないから見る機会や参加する機会も少なくなり、理解する必要度が低くなって用語そのものを知る必要もまたなくなっていく、のかも知れない。

 どちらが先かはにわとりと卵みたいな論争になってしまうかも知れないが、たとえばサッカーの中継を見ていても、やたらと横文字の解説が出てくる。言葉の意味が分からないので、アナウンサーや解説者が何の説明をしているのかも分からず、つまり試合そのものの意味が分からなくなってしまうのである。そしてそうした事実はそのゲームが好きな知人や家族などとの会話にも影響を与えることになってしまう。

 スポーツに興味を持てない原因に一つには、ルールを知らないことがあるのかも知れない。そこで最近、こんな本を読んでみた。「スポーツルールはなぜ不公平か」(生島淳、新潮選書)がそれである。比較的面白い本だった。スポーツ嫌いの私にも、スポーツ観戦とは別の意味で興味深い本だった。ただこれを読んだことで何かのスポーツが好きになったわけでも、あるスポーツのルールを理解できたわけでもなかった。その本もまた相変わらず読者は基本的なルールは知っているはずだとの前提で書かれており、意味不明の横文字の羅列が多かったからである。

 でも一つだけ分かったことがある。どんなルールもどんどん変化していっていることであった。それは基本的にはそのゲームの勝敗が公平になるようにとの設計であり、観客が楽しめるようにするための改正であった。そしてその「ゲームの公平」が誰のために行なわれたのか、「公平」とは何なのか、「観客が楽しむ」とは一体何なのかを知ることになった。

 公平の判断は審判がルールに基づいて行なう。だがこの審判の存在そのものが審判員の技量、ルールの解釈、そしてあってはならないことだろうが収賄や国益などのスポーツ以外の要素による不正などにより揺らいでいくのである。
 この本に書いてあったことの中に、アメリカン・フットボールの審判は「・・・様々な変化を経験しながら、現在ではレフェリー、アンパイア、ラインズマン、ラインジャッジ、フィールドジャッジ、バックジャッジ、そしてサイドジャッジの計7名によって構成されている」(同書P134)とある。

 そしてビデオの発達は、審判そのものを脅かしているとも言われている。私たちは審判を信頼することでゲームを楽しんできたはずである。それほどの興味はなかったはずなのに記憶している野球の審判の話がある。昔の話である。セーフだったかアウトだったか忘れてしまったが、どちらかに判定した審判員に対して疑問を持ったある人が後日写真を示して「あなたの判定は誤りだった」と抗議したそうである。だがその審判員は「それは写真が間違っている」と言ったとの話である。私はこの話をとても気に入っている。ここまで堂々と自分の判断を主張できる審判を尊敬できるような気さえした。
 もちろん、そうした背景にはその審判が日常的に信頼できる判定を下していたとの実績があるからだろう。いい加減な判定を繰り返していたのでは、そうしたエピソードは生まれてこなかっただろうからである。

 ただこの本を読んでみて、ルールもまた法律と同じように変化していくのだと気づいた。そしてその背景にはテレビの存在が大きくかかわっていることも理解できた。この本の著者によれば、卓球のボールが大きくなりカラー化されたのも、柔道着がカラフルになったのも、大相撲の取り組みがちょうど午後6時に終わるのもスポンサーの要請によるテレビ中継が影響しているらしい。

 商業主義は政治経済のみならずスポーツにまで大きく影響を与え、それはルールの変化や改正にまで及んでいる。そうした変化の要請のなかでルールや審判もまた変わっていかざるを得ない。それはオリンピックも同様であり、スポーツはもともとスポーツが持っていたはずの精神性を失いつつあるのかも知れない。それはそれで「観客の要請」や「国威の発動」みたいな側面からみて、一つの時代の要請として認知してもいいのかも知れない。

 ただ私の中には、例えば外国選手を入れたことで相撲は国技から外れ勝ち抜くことへと目的を移したのだから、土俵上でのガッツポーズや私生活での自由な行動を認めたっていいのではないかとか、柔道は「JYUDO」に代わって講道館や姿三四郎のイメージから脱却したのだから、一本から判定へと勝敗の基準が代わったっていいではないかとも思う。
 もちろん素直についていけない自分もある。でもスポーツが「公正な勝敗」、それも「国際的な公正さ」へと軸足を移してきたのなら、それに伴って例えば「日本人としての精神性」みたいなものは、そぎ落としていかなければならないのかも知れない。そのあたりの曖昧さに対する未解決さが、私のスポーツ嫌いの根っこにはあるのかも知れない。

 大相撲もほとんど見ない私ではあるけれど、幕内力士の多くに外国人選手が並んでいるのを見ると、どうしてみんなチョンマゲを結っているいるのかと不思議に思う。丸いリングで立ち技で勝負を決めるのが相撲なら、そして相撲をスポーツと呼び世界中から選手を集めて競技をしようとするのなら、大相撲の優勝者は世界チャンピオンでありオリンピック参加種目として立候補することだっていいはずである。日本で発祥した世界に誇る新しいオリンピック種目の誕生・・・、それもまたいいのかも知れない。日本の国技としての精神性は既に捨ててしまっているのだから。

 出だしの文意と相撲とは必ずしも結びつかないけれど、現在のスポーツはどこかで混乱しているいるような気がしてならない。スポーツ選手が怪我や体力不足でどんどん落伍していく事実、一方で健康にいいのだからスポーツに力を入れましょうなどと老人だけでなく多くの人を巻き込もうとしている現実、こうしたどこか矛盾している現実が私を混乱させ、ルールの分からなさがそれに拍車をかける。そして更にそのルールは商業主義の下で刻々と変化していく。はてさて、試合の中の横文字の氾濫とあいまって、私のスポーツ嫌いは当分の間解消されることはなさそうである。


                                     2012.10.6     佐々木利夫


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