オリンピックだとかワールドカップなどなどで著名となった選手が、テレビの芸能番組によく登場する。芸能とスポーツがどうしてテレビや雑誌で並列されているのかよく分からないけれど、スポーツ選手にも個人としてのそれなりの人気が芸能人と同様にあるからなのかも知れない。ただ、スポーツ選手が20歳台で引退したり、満身創痍で勝負に打ち込む姿がドラマ化されるなどの映像を見ていて、スポーツと健康とにはどこか相容れないような違和感が潜在しているとこれまでも書いてきた。

 そうした感じの一番の基本に私のスポーツへの無関心があることは事実だし、もしかしたらスポーツが嫌いなジャンルになっていることにその原因があるのかも知れない。だとするならこうした私の思いは、色眼鏡を通した偏見だと批判されても弁解のしようがないだろう。それならば、これまでに書いてきたことをまたここで繰り返す必要もまた乏しいだろう。それでもなお、最近の新聞記事を読んでどうにもしっくりこないものを感じたのは、やっぱり私がへそ曲がりだからなのかも知れない。

 「スポーツと政治の間合い」と題した記事が載ったのはつい一週間ほど前のことである(2012.12.13、朝日新聞、社説余滴)。掲載欄のタイトルからみて、記事を書いたのはこの新聞社の記者だろう。記事は財政危機に直面しているオリンピック発祥の地ギリシャにおける政府からのスポーツ補助金が来年から半分以下になることを切り口に、これはリーマンショック前に比べるなら8割カットだと関係者は頭を抱えているという内容から始まる。

 そしてこうした傾向は、ギリシャに限らずロンドンのスポーツ強化費の削減、トルコのある町のプールの閉鎖、日本での企業のスポーツからの休部廃部などや文科省のスポーツ予算の低迷にまで及ぶと展開する。スポーツ予算の削減傾向が望ましいかどうかについては議論のあるところだろう。文化にしろスポーツにしろ、ふんだんな予算があって自由に使えるなら、その分野の振興につながり望ましいことくらい誰にでも分ることだ。だが限られた予算をどう配分するかはまた別の問題でもある。宇宙開発がどんなに理想として望ましく、医療の進歩が難病の患者の命を救うことに結びつくとしても、そこだけに特化してしまって公務員の給料をゼロにしたり、生活保護費を無制約に打ち切るような施策を認めることなど許されないだろうからである。

 スポーツだってそうである。オリンピックでの金メダルの獲得競争がどんなに国民の気持ちを奮い立たせる効果があるとしても、だからと言って他のあらゆる部門に優先して特化させる必要があるとは思えない。もちろんスポーツで生活を維持している選手や、評論家や、メディアなどの中には、「何はなくともまずスポーツ」と思う人がいるかも知れないけれど、どんな要求もある種のバランスの上に成り立っていくものだろうからである。

 さて余談が長くなってしまったが、くだんの新聞記事の続きである。記者が「国際的にも国内的にもスポーツに対する予算が減り、それにしたがってスポーツが衰退傾向にある」と嘆いていることは理解できる。だからと言ってそれに対して「スポーツが好きなんだったら、予算だとか支援だとかに期待するのではなく、ボランティアでも寄付でも集めて自力でやったらどうか」などと皮肉めいたことを言うつもりもない(少しはあるけれど・・・)。だから予算をもっと増やして欲しいと言う気持ちの分らないではない。

 でもこの新聞記事は「スポーツ振興にもっと予算が欲しい」ことの理由にこんな理屈を掲げていたのである。わたしはその理屈そのものにカチンときてしまってのである。

 「・・・本来、スポーツの効用はもっと評価されていい。筑波大の調査では、健康運動教室に参加した高齢者は、非参加者より年間10万円も医療費が好くないという。体を動かす習慣が国民に広まれば、医療費の軽減につながる。例えばその分を地域のスポーツ振興に還元する仕組みを作れないものか。」

 スポーツの意味を私は必ずしもきちんと理解しているわけではない。観るスポーツ、参加するスポーツ、戦うスポーツ、評論するスポーツなどなど、スポーツにも様々な観点から捉える必要があるだろう。それでも私にはこの記事が頭に来たのである。オリンピック選手強化施策も老人の健康運動教室も、もしかしたらスポーツの範囲に含めていいのかも知れない。それでもその二つを直接結びつけ、その接着剤に予算、つまり国民の税金を挟み込む手法には、あまりにも極端な論理の破綻があるように思えてならなかったからである。

 スポーツが本来どういうものなのか私にきちんと理解できているわけではないことは承知している。例えば古代ギリシャにおける走る姿や投げる姿などを描いた美しい肢体の彫像にスポーツの本来的な意味を感じたとしても、それが本質を示しているとは限らないだろう。また、オリンピックや高校野球や幼稚園児の運動会に感動を覚えたからといって、それがスポーツの全部を表しているわけではないだろう。それはそうなのだが、それでもオリンピック選手強化みたいなスポーツ振興と老人の健康運動との間には、たとえこの両者が共にスポーツの分野に含まれるとのだしても、両極端ともいうべき乖離、比べてはいけないくらいの距離があるのではないだろうか。

 スポーツという外国語を、誤訳であることを承知の上で、あえて「闘技」と訳してみよう。そうしたときこの誤訳の中に、テレビで中継されたり、新聞や雑誌に掲載されるスポーツに分類されるゲームや選手の情報などなど、私たちが日常接する「スポーツ」のほぼほとんどが網羅されてしまうのではないかと私には思えてならないのである。

 もちろんそれは私の生活における私の趣味の範囲内の、そして私の理解する身勝手な情報整理の中で言い切ることだから、まさに独断と偏見であることは承知である。それでもなお私は、現実に理解されているスポーツの定義は誤訳である「闘技」のカテゴリーから少しも離れていないと思っているのである。つまり私は、老人が運動教室で手を上げ下げしたり握ったり開いたりしている姿の中からスポーツに思いが及ぶことなど誰一人いないのではないかと思っているのである。

 だからこの二つをダイレクトに結びつけ、片方で浮いた予算をもう一方のために使う仕組みを作ろうなどとする発想は、違和感を超えて間違いだとさえ思ったのである。政府や自治体が無駄な支出を削減したり、国民が健康になることで浮いた医療費などを、もっと大切な目的のために使おうとすることを批判したいのではない。そうした考えは当然のことであり、望ましい方向だとも思う。ただ、この記事のように、まるで意味の違うことどもを同じスポーツという範疇に押し込んで、その中でやりくりをするという発想がどうにも我田引水、身勝手、屁理屈な思いあがりのように思えてならず、そうした発想は逆にスポーツ振興にブレーキをかける効果しか持てないのではないかと感じたのである。


                                     2012.12.20     佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



スポーツの混乱