猿も木から落ちると言うから、間違いを犯すのは人間だけに限るものではないのかも知れない。だが間違いを犯した結果について、例えば猿が仲間の猿に謝罪したり、ペンギンが他者の領域を犯したことについて仲間に言い訳しているような映像は見たことがないから、謝罪するという行為は人間特有の性質なのだろうか。どうしてこんなことを思いついたのかと問われるなら、最近のテレビでの謝罪会見を見ていて、ふと我が身に起きた数ヶ月前のちょっとした出来事がそれに重なったからである。

 今年の2月頃のことである。ある手続きの申請用紙をもらうため区役所へ出かけた時のことである。担当の窓口で担当者に用件を伝え、その申請の用紙と記載方法の説明書をもらいたいと伝えた。担当者は僅かの時間席を外して、必要な書類を私へ渡してくれた。その場で作成できるような書類ではなかったので、私は書類を受け取って帰った。ここまでは特に問題のない、普通の出来事である。

 私は事務所に戻り、しばらくしてからその書類の作成にかかった。自分だって長く官庁に勤めていたのだからあんまり他人の悪口はいいたくないが、官庁への手続きというのは申請にしろ申告にしろなかなか一筋縄ではいかないものだ。住所氏名などの常識的に分かるような項目だって、たとえば私のように自宅と事務所の二つを持っている場合はどちらを記載すべきかだってすぐには分からないことが多い。しかも書類には官庁固有の用語が随所に散らばっているので、その要求する内容を理解するのも難しいことが多い。

 まあ官庁へ提出する文書というのは一種の法的効果を求めるものだから、用語の意味や内容も厳格に解釈し、誤解を招くことのないような記載を求められるのは当たり前だといえるかも知れない。だからたかだか一枚の申請書に対して、数ページにもわたる説明書がついてくる場合だってある。

 そんなこんなで、私も説明書と首っききで申請書と格闘することになった。半分くらいまで進んだとき、説明書の中に「この項目については○○の説明書をお読みください」とあって、ここで筆が止まってしまった。なんたって説明書は一種類しか手渡されず、「○○の説明書」なるものは見ようにも手許にないからである。
 これは明らかに区役所の職員のミスである。もしかしたら「○○の説明書」は大部分の人に対しては不用なものかも知れないけれど、必要かどうかを申請者に尋ねるかそれとも本体の説明書と同時に無駄を承知でその説明書も渡すか、もしくは本体の説明書に一体化させるべきではないかと思ったのである。

 私にとってもう一つの説明書がなければこの申請書は完成しないのは明らかであり、そうした説明書が存在していること自体、申請書を完成させるために必要な説明書であることを区役所が認めていることでもあろう。説明書が別冊として存在しているということは、電話で聞いて簡単に内容が分かることではないような気がする。仮に電話で聞いた結果こんな簡単なことかと分かったとしても、私の聞き方がどこまで正しかったかどうか必ずしも自信がない。別冊の記載要領を自分の目で確かめるのが一番である。

 その日のうちに同じ区役所の同じ窓口にその記載要領をもらいに行くことにした。区役所にとって私はクレーマーなのかも知れないが、一度目と同じ人間が窓口に出てきた。当然私は、同じ用件で二度も足を運ばせたことについて苦情を伝えた。担当者も私に用紙を渡したことを覚えていて、別冊の説明書を私に渡しながら謝ることしきりである。

 とは言ってもつまるところは「すみません」、「申し訳ありません」の繰り返しである。そうした謝罪の言い方や態度が気に食わなかったというのではない。それでもこうしたケースでの謝罪の方法には「すみません」、「申し訳ありません」しかないことに私は理解しつつ、どこか釈然としないものを感じたのである。

 謝罪というのは、一つは間違いを犯した側が誠心誠意反省することである。だがそれだけで完結するのではない。謝罪にはもう一つ、間違いによって被害なり損害を受けた側がいるのだから、その被害者が相手の謝罪により納得することが必要になるのである。この対立する二つの立場が和解してはじめて謝罪という行為が完結するのである。そうした「完結する手法なり行動」に対する意識が、どうも間違いを犯した側と言うか謝罪という方式には欠けているのではないか、そんなふうに思えたのである。
 それは単に加害側の姿勢に誠意が見られるかと見られないという違いではない。もっと基本的に「謝罪という行為に対するルールが社会的に完成していない」ように思えたのである。

 5月に北海道の泊村の原発が検査のために稼動が中止され、これによって日本における原子力発電所は一箇所も稼動していない状態になった。そこで夏場の電力不足を背景に再稼動が問題となり、しかもその第一号機がどこになるかが話題になった。そうしたなか、関西電力の福井県大飯発電所が再稼動第一号の候補になることを政府が承認し発電の準備に入った。その準備中の6月19日夜、発電機の冷却水のタンクの水位低下を示す警報機が一時、作動するという事件が起きた。ところがこの警報の事実が、地元福井県や大飯町はもとより外部に発表されたのは、事件発生から14時間も経過した翌日の午前11時だったのである。
 これについて関西電力は「本来は公表基準に当たらない軽微な事象」とし、経済産業省原子力安全・保安院は「適切な判断ができず反省している」と謝罪し、牧野副大臣も「発表が遅れたのは遺憾」として審議官を注意したそうである(2012.6.20、テレビ)。

 これとはまるで別であるが、海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」の乗組員が自殺した事件があり、この自殺は先輩隊員のいじめが原因だとして遺族が民事訴訟を起こしている。これに関して事件の直後に自衛隊が乗組員全員に艦内での暴行や恐喝の有無やその内容を尋ねる「艦内生活実態アンケート」を実施したそうである。裁判でこのアンケートの開示を遺族が求めたのに対し、これまで自衛隊側は「破棄した、不存在」と主張してきた。ところが最近になって「自主的に探したら見つかった」としてこれまでの説明を変えたのである。そしてこの見つかったことに対する謝罪である。
 杉本幕僚長は「事実に基づかない誤った説明をしたことを心からおわびする」と述べた(2012.6.22、朝日新聞)。

 また別の事件。大阪にある企業などのデータを預かるレンタルサーバー会社が、作業ミスにより預かったデータを消失し、そのデータの復旧が不可能となる事件が発生した。ユーザーは5900社にも及ぶという。サーバー会社は「申し訳ありません」と謝罪するとともに、早速ホームページ上で「有償契約を結んでいる顧客についてはサービス契約の範囲内で損害賠償に応じる」と掲載した(2012.6.26、NHKテレビ昼のニュース他)。

 そして6月27日は沖縄を除く全国の電力会社の株主総会が同時に開催された。東京電力は原発問題で、北海道電力もプルサーマルに関する公聴会で、電力会社側に有利になるようなやらせを行ったことなど、各地の電力会社で経営側はこぞって謝罪の言葉を繰り返している。

 こうしてみると、食品製造でも車や家電などのメーカーでも、謝罪につながる記者会見じみた報道は毎日のように見受けられる。国民に謝罪するといっても結局は個人としての国民個々に謝罪するのは不可能だから、テレビカメラを集めてマスコミの前で頭を下げるしかないのかも知れないけれど、テレビの前で頭を下げることがどうして「国民に対する謝罪になるのか」については釈然としないものを感じてしまう。テレビの前で頭を下げる以外にどんな方法があるのかと問われると私も返答に困るのだが、だからと言ってテレビ会見だけで謝罪が完了してしまうのもどこか納得できないような気がしてならない。

 「溜飲が下がる」と言う言葉がある。喉下をわだかまりが通り過ぎて肉体的にも精神的にもすっきりすることである。被害を受けた人たちは謝罪にこうした「溜飲の下がる思い」を望んでいるのではないだろうか。にもかかわらず、繰り返される謝罪のスタイルには、どこかこうした思いが人々に届いてこないように感じてならない。
 「頭を下げ、場合によっては泣き声や土下座などの態度で示す」こと、そして損害を与えたなら「金銭で見積もって賠償する」以外にどんな方法があるのか、私にはすぐには思いつかない。それはそうなんだけれど、少なくとも現在の「謝罪のシステム」では、被害を受けた側が納得して「溜飲を下げる思い」に到達するのは困難なような気がしてならない。

 例えば私の説明書の交付ミスで区役所に無駄足を運ばせられたことだって、結局は「すいません」と頭を下げられることで引き下がるしかなかった。別に相手を殴りたかったわけでも、菓子折り持って区長が謝りに来るべきだと思ったわけでも、私の提出した申請に便宜を与えてほしいと思ったわけでもない。むしろ、「すいませんと頭を下げる」以外に、私をすっきりさせる方法が私自身にも考え付かないことが心のしこりとして残ってしまったのである。

 そしてそうしたわだかまりの背景には、恐らく人間にしかないてあろう「相手に謝る」という行為が、人間社会において未成熟のままに放置されているのではないか、そんな思いがしたのである。
 どんな損害も「結局は金銭に見積もって請求するしかない」のが現状なのかも知れない。でも金銭に評価しても評価しきれない損害というのは数多く存在しているのであり、そうした損害は「申し訳ありません」と頭を下げ金を払うだけでは解決しないのではないだろうか。

 現在の謝罪パターンは「すいません」と頭を下げる、「職員教育や内部監査を徹底して、再発防止に努めます」と公表する、そして必要に応じ担当者を処罰したり金銭で賠償をすることに限られている。そうした行動パターンはいつも同じで、「謝罪している」ことの真意がどうしても他者には伝わってこない。こうした方法以外に別の謝罪システムを考えられないかと、ない知恵をしぼってみたのだがどうも思いつかない。

 対案を示すことなく議論をふっかけるのは私の嫌いなパターンではあるのだが、世の中には頭のいい人やトラブル解決の専門家などがたくさんいるだろう。誰か、「新しい謝罪のシステム」を発明し、開発し、現状を再構築してくれないものだろうか。そうでないと多くの国民が、現状の謝罪システムの中に埋没し、「溜飲の下がらない」中途半端な状態の中で溺れてしまいそうである。


                                     2012.6.27    佐々木利夫


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謝罪システムの再構築