携帯電話はどこまで進化していくのだろうか。携帯電話が電話のイメージから離れて別種の生物として進化していることは実感として感じている。なんたって日本人口を超える数の携帯端末が契約されている事実がそれを裏付けている。

 その携帯がこの一年で「スマートフォン」(略称・スマホ)なるものに変容していっているのだそうである。従来の携帯電話と具体的にどこが違うのかについて、携帯を持たない私には当初はまるで分からなかった。しかし、先週孫を連れて遊びにきた娘が「スマホにした」と漏らしたことで少し触らせてもらったのだが、写真や画面の拡大縮小機能以外には「インターネット接続のできる携帯」くらいの理解しかできなかった。
 もちろんインターネットと自由に接続できるとのことだから、これまでのお仕着せのソフト利用から有料無料はともかくとして、好みのアプリケーションを入手して携帯端末をあたかも小型携帯パソコンのように利用できるのが特徴と言っていいのかも知れない。

 さてこのスマホの普及がなんでも携帯電話の50%を超えるまでになっているとの話を聞いた。そしてこのスマホの機能が、単なる携帯電話スタイルから外れてタブレット端末と言われるものに広がってきているようなのである。
 こんな時代の先端を走っているスマホを、飲み仲間のひとりがタブレット型りもの(携帯電話は別に持っているので電話機能はついていないようだがメールの送受信はできる)を手に入れたと事務所へ見せびらかしにきた。まだまだ使いこなしているというには不十分なようだが、インターネット画面の表示や写真の鮮やかさなどはさすがと思わせるものがある。

 タブレット型はポケットに入れるには多少荷物になりそうだけれど、携帯電話と同じような操作でインターネットとの接続ができるようで、私の持っているパソコンのように電話回線の出口からルーターを経由してつなげるような不自由さはない。まさに大型画面の携帯電話もどきであり、電波の届きにくい場所などはあるのかも知れないけれど、路上でも地下鉄の車内でもこの端末は自由にインターネットと接続できるようである。

 そうした意味では、すごいマシンができたものだと感心することしきりである。データの圧縮技術や送受信のテクノロジーなども飛躍的に向上しているようだから、もしかしたら私が利用しているパソコンの光回線よりも進んでいるかも知れない。

 「いつでも、どこでも、インターネット」の世界は数年前から「ユビキタス社会」(『いつでも、どこでも、何でも、誰でも』コンピューターネットワークを初めとしてネットワークにつながる社会・ウィキペディフから引用)に間もなくなるだろうと言われていたから、こうした進化はそれほど驚くことではないのかも知れない。なんたってユビキタス社会なる用語が出始めた頃、社会は間もなく電話は当然、背広やカバンなどにも電子装置が組み込まれるだろうと言われていた。
 東日本大震災で東北地方だけ延期されていたテレビのデジタル化も全国で完了し、完全にデジタル放送に移行した。アナログで使われていた旧チャンネルの電波は新しい通信機能に割り当てられるとの話は聞いたことがあるので、こうしたスマホの普及にも一役買っているのかも知れない。

 こうしたスマホの普及を示すように、路上でも電車の中でも携帯電話に向ってスマホ特有の指使い(画面に指でタッチしながら上下左右に動かすしぐさ)が目立つようになってきた。指を動かすたびに画面に表示されている小さなアイコンが次々と動いていく様子が傍目からも分かるときがある。またこのエッセイの冒頭に掲げた画像のようなタブレット端末を持つ人も増えてきているようで、電車の座席で読書などをしている人も時おり見かけるようになってきた。
 現在のメモリーの発達にはすさまじいものがあるから、端末一台にだって小説数千冊は優に入ることだろう。こうなってくると、本が何冊入るとか音楽が何曲入るという次元を超えて、感覚的には端末の中身は無尽蔵と言ってもいいような気さえしてくる。

 さてさて、ここで私の登場である。どちらかというと新しい物好きの私なので、仲間からタブレット端末で私の発表しているホームページを見せられたときは、実のところグラッと心が動いた。なんたって端末単体でネットに接続できる携帯無線パソコンの登場だったからである。かつて私が携帯電話を持っていた頃は、基地局が少なかったせいもあって通話不能地域がけっこう多かった。だが現在では日本の総人口を超えるような携帯電話の登録があるくらいに普及しているので、そうしたつながりにくい地域は極端に減ってきているようである。そうした事実は電車や地下鉄のなかでも通話やメールが行われていること、山岳遭難の救助依頼が山頂や谷底あたりからも携帯電話で届いていることなどからも分かってくる。
 だとすれば、「電波が届く」という意味では、まさにスマホは私たちの行動範囲の全地域を網羅しているといってもいいのかも知れない。

 私が持っているパソコンはデスクトップ型で机に貼り付けて利用している。ノートパソコンは画面が小さいのとかつては高価だったこともあってまだ持ってはいない。ノート型はカバンに入れての持ち運びを目的としたものだが、インターネットへの接続は持ち運びスタイルになっているわけではない。閉鎖環境で文章を作ったり計算したりすることはできるけれど、インターネットへの接続は無理である。仮に無線LANを利用していたとしても、ルーターと呼ばれるインターネットの接続機器から数十メートルくらいしか離れると使えなくなってしまう。

 そうした意味では「どこでも使えるパソコン」はとても魅力的であり、月々の利用料金もその友人の話を聞く限りではそれほど高価なものではない。私の食指が動いたのも当然であった。
 だがしかし、ふと、手に入れてどうするとその時思ったのである。私のネット接続環境は事務所だけだが、時間制限もなければデータ量の多寡にも関係がない定額無制限である。とすれば、残るは自宅と通勤時間だけである。遠隔地の得意先もないので、JRやバスを利用したりするような出張もない。自宅には今のところパソコンを持ち込まないようにしていて、自分なりの楽しみを見出して満足している。

 僅かの残ったのは通勤時間帯での利用である。歩きながらでも理屈の上では使えるかも知れないけれど、どうもラジオや音楽を聴いたりならばともかく、ネット利用は実用的とは言えない。電車や地下鉄やバスでの利用は可能である。だが乗車している時間は比較的時間のかかるバスでも20分、それ以外なら10分を切る程度であり、そのくらいならわざわざタブレット端末でネットを見たり読書をしたりするほどのことはない。今だってmp3のウォークマンやラジオ、それに時々は文庫本一冊をカバンに入れることで十分事足りている。

 あればあったで何らかの便利な利用はできると思うけれど、わざわざ手に入れてまで利用するようなメリットはどうも見当たらなかった。かくしてタブレット端末は、心のどこかで「欲しい」との気持ちを残しつつ、利用する場面が見当たらないこともあって、好奇心の対象から外れることになったのである。
 そうそう、たった一つ、便利かなと思う利用価値がないではなかった。それはメール機能である。メールのチェックは現在は私の事務所のパソコンからのみである。それが24時間可能になることが分かる。でもそこまでするようなメル友は見当たらないし、第一せっかく携帯電話手放してフリーな時間を作ったのだから、わざわざ振り出しに戻ることなどもってのほかである。



                                     
2012.4.10     佐々木利夫


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