太陽の黒点活動が低下しつつあるのだそうである。太陽の黒点は、11年周期で増減を繰り返してきていることは私も知っている現象であった。そして黒点の多い年は太陽の活動が活発化していると言われてきたことも知っていた。
 その太陽の黒点活動が11年を迎えてももとの状態に戻らないのだそうである。つまり太陽黒点の11年周期が乱れてきたとの意味である。

 太陽黒点の活動と地球とがどんな関係にあるのかについての私の知識は驚くほど乏しい。「関係がある」とだけ知っている程度で、「どうして」だとか「どんな」などと問われても答えるだけの知識はまるでないからである。
 太陽の周期的な活動に異変が起き冬眠に入って地球に低温期が到来するのではないかとの情報が入ってきたのは、最近の新聞記事によるものである(2012.4.20、朝日新聞、「太陽まもなく冬眠?」)。
 記事によると太陽には南北両極に正と負の極があり、これが11年周期で同時に反転するらしい。この同時反転が北極だけに見られ南極に見られないこと、つまり反転の対称性が崩れてきているらしいのが原因らしいとのことである。しかも北極の反転は2012年5月、つまり今月にも起こると言う。もっともここまで知らされても、まだ私にはそれがどうして地球に影響を与えるのかの理解にまで届くことはないのに変りはない。

 ただ太陽の黒点の数は、太陽が活発化しているときには多く沈静化のときには少ないらしく、黒点が少ない現在の状態というのは地球に降り注ぐエネルギーもまた少ないことでもあるらしい。そうすると地球の受ける太陽からのエネルギーが減少してくるので、間もなく地球の気温が低下する可能性がある・・・、との結論に結びつくらしいのである。

 こんな話を聞いていると、こうした現象がこれまで国際会議などであれほど議論されてきた地球温暖化などの問題と果たしてどんな風に関係してくるのか分からなくなってくる。地球には何度も氷河期が訪れてきたし、また全球凍結と言って地球全部が凍結してしまった時代もあると聞いている。だとすれば、そんな氷河期や全球凍結に人類がどこまで対応していけるのか、地球を例えば二酸化炭素などの温暖化ガスのコートで包んで温室化させることはどこまで効果的なのかなど、いくつも疑問がわいてくる。

 もちろんそうした危機に直面するのは数百年先、数千先、場合によっては数万年も先のことかも知れず、果たしてそうした時代まで地球温暖化という人為的な現象にさらされた人類が生き延びていけるのかどうかさえ疑問ではある。ただこうした話はあくまでも「地球上の生物にとって」であるとか、「人類にとって」の話題であって、地球そのものにしてみるなら空気がなくなろうが全球凍結だろうが意味のないことかも知れない。

 考えてみると宇宙の誕生が仮にビックバンによるものだとするなら宇宙の歴史は約137億年から200億年前であり、太陽系の生成は地球も含めて50億年くらいだとされている。そして地球における原始生命の誕生は40億年くらい前だといわれており、その後1億年から7千万年前にかけて最初の哺乳類の発生、3千万年くらい前に尾のない猿が生まれ、600万年から500万年前にかけてどうやら二足歩行の人類に近い種の誕生になったと言われている。
 つまり私たちは霊長類であるなどと威張ってはみても、人類が地上に出てきたのは地球の歴史50億年の中のたかだか数百万年でしかないことになる。そしてそうした中で人が文明だとか文化などと騒ぎだしたのは、更に僅かの数千年の規模にしか過ぎない。

 こうして考えてみると、地球に人類が生まれたのは単なる一過性の現象にしか過ぎないように思える。例えば絶滅危惧種などと名づけて特定の動植物を保護しようとしたりしているけれど、地球の歴史の中でカンブリア紀などを見てみると、爆発的に生物が発生し数万年数億年で絶滅していったケースは珍しくなく存在している。つまり、恐竜も含めていつまでも生き続けているような生物の種は存在していないのである。
 ならば人類とても同様であろう。あたかも人は地球最後の日まで、更にはその日を乗り越えて永遠に種として存在し続けていけるかのように思っているけれど、それは錯覚でしかない。

 太陽の黒点が増えようが減ろうが、それによって地球が灼熱と化そうが全球凍結で氷の下に埋もれようが、地球そのものにとってはなんの痛痒も感じないことだろう。地球の歴史50億年は、そうした現象のくり返しだったからである。
 地球という固体が意思を持っているのかどうか、つまり命があるのかどうかだって私には分からない。私たちは「生きている地球」という言葉を考えるとき、それは地球そのものであるとか山や海洋や岩などではなく、地上に生息している様々な動植物の総合だけを考えている。そして場合によってはその頂点に位置していると傲慢にも考えている人類の存続につながる現象だけを対象にしている。そして例えば地球そのものが生きているのかどうかなどについては一顧だにしようとはしない。

 それでも地球そのものが生きていると考えることだってできるかも知れないと、私はふと思う。地球の持つ意識が人類と僅かにもせよ共通し交流できる部分があるのかどうか分からない。恐らく共通することはなく、意思疎通を望むことなどできないかも知れない。地球の寿命は100億歳だといわれているから、50億歳の現在は100歳を限界とする人類に見立てるなら50歳である。その地球が生きていて心臓を持って脈打ち、どこかで呼吸しているのだとしても、その脈が仮に千万年に一回打つのだとするなら、私たちはまだ地球の脈拍を一度も経験していないことになる。そんなのは命ではないと言うのなら、果たして命とは何なのだろうか。

 こんな話が荒唐無稽であることくらい端から承知である。それにもかかわらずふと思いついたのは、私たちはあまりにも人類を宇宙最高の生物として考え過ぎているように思えたからである。火星へ、木星へ、そして地球型の衛星を求めて多くの研究がなされている。ついこの前のNHKの宇宙をテーマにした番組「コズミックフロント」は、電波による地球外知的生命体からの信号を捕らえようとしている科学者の姿を描いていた。

 しかしそうした悠久の探求にもかかわらず、バクテリアに似た命も含めて、地球以外から生物らしき存在を知らせるデータはない。SFドラマスタートレックは光速ワープ航法によって宇宙の彼方の様々な生命体との交流を描いたし、火星人だって様々な形で取り上げられてきた。だが、たとえその生命形態が微生物、さらにはその死骸であるとしても、人類以外の生命の発見は未だされていない。

 宇宙学者は言う。仮に1千億に一個の地球に似た衛星があり、その中の仮に1千億に一個の太陽系の地球に似た環境があるだけでも、無限とも言える宇宙の星々から見るなら必ず生命は存在すると。そうした確率計算はいかにも説得力がある。
 でも私たち地球型の人類の発生は、もしかしたら生物そのものが一過性の偶然、もっと言うなら宇宙の遊びによって生じた例外なのかも知れないとの思いがある。そうした偶然も、考えようによっては一種の確率の問題に帰するのかも知れないけれど、でも生命の誕生はたった一つの無限分の一の偶然だと考えることだってできるのではないだろうか。

 だからと言って、その故をもって人類を宇宙の頂点に置こうなどとは思わないし、そんな風に考えること自体が間違いだろう。パスカルは「人間は考える葦である」と言ったし、カントもまた「我思う 故に我あり」と言った。人は考えることを他の動植物に優越する表象として考える。それはそれでいいだろう。蚤が身長の何倍まで跳躍できるかを基準に全生物を評価し、蔦がどこまで伸びることができるかを基準に世界の王者として君臨しようとしたところで、それはそれで認めなければならないだろうからである。

 「・・・地球46億年の歴史はどうかといったら、大気に酸素が生じたということだって。『生物圏』というものがうまれたときに『生物圏』が起こした乱れ、汚染なわけです。・・・地球の歴史というのは汚染の歴史なんです。だから『地球にやさしく』なんてバカげた話なんです」(松井孝典、惑星物理学者、「いのちの響 こころの言葉」P156、徳間書店)

 地球に生物はおろか人間もいなかったのである。生物のいない地球が本来の地球の姿なのである。もしかしたら生物そのものの存在が「地球における一過性の汚染」なのかも知れないのである。


                                     2012.5.17     佐々木利夫


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冬眠する太陽