それは自らが望むことのできる最後の機会なのだから、当たり前と言えば当たり前のことかも知れない。そうは思いつつもその人その人が寄せる「死」への思いにもまた特有のわがままがあり、たとえそれがどんなに死に直面した場面への思いであったにしても、時に他者との共感や共有からは少し離れてしまう場合だってあるのかも知れないと感じたのであった。
 それは、「死ぬという大仕事 がんと共生した半年間の記録」(上坂冬子、2009年、小学館)を読んだときの感想だった。

 上坂冬子はノンフィクション作家である。彼女の著作について私はほとんど読んだ記憶がない。読書記録をさぐってみたら、今から6〜7年前に「この人 午後のもてなし」と「腹立ち日記」の2冊、それに3年前に曽野綾子との対談集「老い楽 対談」を読んだくらいである。しかもどんな内容だったか、どうにも思い出せない体たらくだから、彼女の著作についてはまるで知らないのと同じである。
 ただ私の読書カード(若い頃から少し気になったフレーズを書きとめてあるカード)の中に、確か彼女のものが入っていたような記憶が残っていてどうにも気になった。数百枚のカードの束であり、パソコンなどでの整理もしていないので、一枚ずつ手探りで探すしかない。見つかった、こんなカードであった。

 「無い子に苦労しない、という言葉がある。こういう言葉が受けつがれてきたということは、昔から子どもに泣かされた親が少なくなかったからだろう。このところ(独身で子どものいない)私の立場をしきりに羨ましがる人がふえている。・・・以前、私は気心の知れたサラリーマンに馬鹿な質問をしたことがある。彼ら夫婦の・・・幼い一人娘は公平にみて不細工であった。・・・単刀直入に『親の目から見ると、この子でも美人に思えるものなの』と聞いてみた。・・・『いや、・・・親にとって子どもの存在は、ただそこにいてくれるだけでいい、それだけで気がなごむ存在なんだ』。その言葉をきいて私は、独身で過ごした若き日の損失を思った。それほどかけがいのない存在を、私は何一つ持っていなかったからだ・・・」(日経新聞、平成2(1990)年.4.19)

 もう20年以上も前に新聞に掲載された、彼女の小さなエッセイである。どんな思いがこのカードになったのか今となっては思い出すことなどできないけれど、恐らく引用した最後の部分が私の思いに共鳴したのだろうと思う。そして彼女はとうとう結婚することなく、2009年4月14日78歳でこの世と訣別した。冒頭の本は、その死に直面せざるを得なかった彼女の思いを綴ったものである。

 彼女の生き様について彼女を知る仲間たちはこぞって「人にどう思われようと構わなかった人」と評している。それはそれで一つの生き方として筋が通っているし、見事な人生だったとも思える。
 そうした彼女の思いは「・・・私、正直なところ自分のがんが治るとは思っていないの。気の済むように手当てをしてもらえれば、治らなくてもいいの」(冒頭書P23、以下の引用も同じ)からも感じることができた。それでも私はこの一言に、どこか引っかかるものを感じたのである。緩和ケアにどっぷりと浸かった著名人の、恐らく自分の安定したすまいを持ち友人などとの付き合いや治療費などにもまるで心配のないのんきな患者の、傲りにも似た気持ちがそこはかとなく感じられたからである。

 彼女は「治療手段が尽くされた」との理由で医療から見放される「がん難民」に対する政府や病院の対応を、凄まじいほどにも怒っている。でもその怒りは「がん難民に対する社会や医療のあり方」に対するものよりも、今まさに避けられない死を迎えようとしてる我が身の保身へ向っているように感じられたからである。彼女の「治るとは思っていないの、・・・治らなくてもいいの」は、我が身のがんが治らないものであることを自覚した上で、しかも「気の済むように手当てしてもらえれば」との贅沢な思いにたっぷりと包まれた願望だと感じたからである。

 そう思って読んでみると、彼女の自分へのいとおしさが分からないではないものの、どこか身勝手に感じる部分が随所に出てきているように感じる。つまりこうした安心できる最上級の扱いを受けたまま、安心できる病院から追い出されることなく置いてもらえること、そしてそこで死を迎えられるとの回答を、切ないほどにも医師の口から得たいとの思いがあまりにもあからさまに書かれているからである。

 「家へ帰ったらもうここへは入れてもらえない、なんてことはない?」(P129)

 「もし私がここでそういう
(追い出されるような)目に遭わされたら、ベッドにしがみついて白い目で先生方を見上げて、『捨てられるーっー』て騒ぐわよ」(P133)

 「よその施設のことはどうでもいいんですが(笑)、私自身はちゃんと最後まで慈恵(病院)に置いてもらえるわけですか?。・・・(血中アンモニア濃度が)上がったり下がったりしている間は置いてもらえるわけ?・・・肝臓が元気になっても、それで病院から出されるかもしれないから、うれしいとばかりは言っていられないんだ(笑)」(P134,135)

 「・・・ねえ先生、結局私はどうなって死ぬんですか?」(P137)

 「・・・話は逸れましたけど最終的に私は、とろとろ眠ってしまって死んでいけるわけですか?」(P140)

 こうした思いをわがままだと言ってしまうのは酷かも知れない。恐らく人間誰もが同じように感じているだろう死への不安と諦めに直面した者の、よりどころとなる望みへの一つの答えだとも思えるからである。

 それでもなお私は、彼女の思いが地域の違いや自らの感性に沿った医者とうまくめぐり合えるかなどと言った物理的な条件、はたまたどこまで高額な入院費や手術費用を賄えるかと言った単なる経済的事情によるものにせよ、多くのガン難民や満足できるような治療さえ受けられずに見放されてしまう多くの(もしかしたら大多数の)患者の現実と対比して、どこかとんでもなくわがままな思いであるように感じてしまったのである。

 「私は金持ちではない」と彼女は言っている。だが病室内の他の入院患者の話題は一つも出てこないところを見ると、恐らく差額ベッド料金を支払って個室で治療を受けているのだろう。著名な作家であり、入院中も書き続けているようだし、もしかしたら自らの治療経過に関するこうした著書を出版することだって予め決まっていたのかも知れない。なんたって死後ふた月でこの本は出版されているのだし、しかもその本には治療にかかわった複数の医師や病院長の手記さえも含まれているからである。だとすればそれは本人は意識していなかったかも知れないけれど、この著名な患者を巡る様々は、病院や担当する医師に対して一種の間接的な脅迫になっていたのではないだろうかとすら勘ぐってしまう。

 彼女の病院生活は、医師の承認もあったからだろうけれどけっこう気ままである。食欲がなく病院食は口に合わないとの理由で、有名らしいフランス料理店から「醤油味ではなくヒラメの薄作りにホースラディッシュだか、わさびだかちょっと刺激的なものがマヨネーズに混ぜてかけてあるの」(P25)を注文したり、「愛宕山の茶屋レストラン」(P38)などにも出かけている。

 その上いかにも贅沢に思えることは、信頼できるような慈恵大病院の院長や治療を担当する医師や緩和ケアの医師と、毎日のように、しかも彼女の知性や琴線に触れるような豊かな会話を繰り返していることである。そうした会話が、患者に対するとても穏やかな寄り添いになっていることは、この本のあちこちから伝わってくる。そしてこの本の冒頭に掲げられている追悼文のタイトルが示しているように「追悼 最期の日まで作家として」のスタイルそのままに生涯最期の日を迎えることができたのである。

 彼女の死を贅沢だとかわがままで、だから悪いなどと批判したいのではない。彼女の望む臨終への様々は、恐らく誰もが望む死への道すがらであろうことは、切ないほど分かるからである。それでもなお私は、彼女が臨終までに得られた様々は、彼女が金持ちでも著名人でもなく気の利いたことなどまるで言えないような単なるその辺の普通の老人だとしても叶えられた望みだっただろうかと思ったのである。もし、彼女が生活保護を受けているような田舎に住む貧しい老婆だったとしても、この社会はそしてこの病院はそうした患者をここまできちんと受け入れ向かい合い、そしてここまでの豊かな臨終を与えてくれただろうかと思ったのである。もちろん私は彼女の死を最近知ったのだし、入院中の様々についてはこの本に書かれた以外についてはまるで知らない。また、彼女が入院した慈恵大病院の患者に対する一般的な対応の仕方についも同様である。

 だからこうした私の思いは、患者が有名作家だということだけから抱いた偏見だと言われてしまえば、反論する資料を持っているわけではない。けれども治療や精神的なケアも含めた患者へ向き合おうとする現在の一般的な医療の水準や姿勢が、彼女が受けたであろう看取りの水準にまで達しているとはどうしても思えないのである。

 彼女の死が本人にとって理想的であっただろうことは否定できない。でも、どこかでその理想的である死は世の患者の多く、もしかしたら死を意識しているであろう患者の誰もが望みつつ望んでも得られないものではないかと感じられてならない。だからそういう意味で、そうした理想の死を得ることのできた彼女の生き様はまた、どこかわがままを通した結果によるものではないかとの思いから抜け出せないでいるのである。

 わがままな死を否定しようとは思わない。むしろわがままでいいではないかとさえ思っている。でも望んでもそうしたわがままを通してもらえないのが現実の医療である。その現実に彼女は風穴を開けたのか、それとも作家という立場を間接的にもせよ利用した単なるわがままでしかなかったのか、その辺がどうも私の中でもやもやして整理がつけられないでいるのである。


                                     2012.5.3     佐々木利夫


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わがままな死