8月18日の札幌は北海道開拓神社の神輿渡御の日とかで、昼のテレビはあちこちの放送局でその中継がなされていた。私はこの神社がけっこう著名な存在であるらしいにもかかわらず、その所在も、成り立ちも、目的なども含めてまるで知識がなかったことは、浅学の身に珍しいことではないものの、いささか残念ではある。何でもこの神輿の総重量は4.数トンもあって、国内的にも一番重いとされるなど、有名なものらしい。

 だからこそ行列の中継がなされたのだろうけれど、そのニュースを見ていてどこか気になった。別に神輿の関係者が祭礼に行列を作ることに違和感を感じたわけではない。また、街中を巡行して道行く市民に神社の存在や祭礼の意味、神輿の姿やその大きさなどを披露しょうとすることに異を唱えるつもりもない。ただ気になったのは、その行列に参加している人たちが、神輿に結びつけられている紐もしくは綱を曳きながら、太鼓の音に合わせながら一斉に「ワッショイ」と叫んでいる姿についてであった。

 神輿を運ぶための掛け声なのだろうから、それが「ワッショイ」だろうがはたまた青森県のねぶたのような「ラッセラー・ラッセラー」や浅草三社祭の「セイヤ・セイヤ」だろうが自由であるし、恐らく掛け声そのものだって様々な伝統の中で特別な意味を持つものとして独自の発展を遂げてきたものであろう。ただそれでもその掛け声というのは、純粋な意味での掛け声だけの独立した音曲として育ってきたのでなく、例えば神仏もしくは超自然的な何者かへの賛歌であるとか、もしくは例えば神輿などの場合にはそれを担ぐためや車をつけて曳くために多人数の力を一箇所へ集約するための合図として成立してきたのではないかと思うのである。

 「ワッショイ」という表現に特別な意味があるのかどうか、必ずしも私に分かっているわけではない。でも語感から理解する限り常識的には多人数が一斉に力を合わせて重い神輿を動かすための合図の一種であると考えるのが妥当するのではないだろうか。例えば数人で担いだ重い神輿の次の一歩を同時に進めるための合図や、綱引きの場合のように力を合わせて同時に綱を曳くための合図などである。
 ところが今日のテレビ映像の神輿渡御からは、このどちらも関係しているようには思えなかったのである。「ワッショイ」の声は聞こえる。だがその声と力を入れる合図とがまるで結びついていないのである。確かに「ワッショイ」は大勢の声で同時に聞こえてくる。発している人の顔も口元も見える。だがその言葉には掛け声としての力が少しも入っているように見えないのである。「(太鼓がドン・ドン・ドンと鳴る)、ワッショイと一斉に声を出す」、それだけを単調に力なく繰り返しているだけなのである。

 神輿の行列である。だから神輿は少しずつ移動を続けている。だがそれは綱で曳いているからでも、屈強な若者の背に担がれているわけでもない。単にトラックの荷台に鎮座しているだけである。つまり、神輿の移動と「ワッショイ」とは何の関係もないのである。トラックは4.数トンの神輿を載せて静々とガソリンエンジンで動いているのである。もちろんそのスピードは人間の移動速度に合わせてである。

 つまり私が言いたかったのは「ワッショイ」と神輿とが何の関係もなかったことである。担ぎ手である若者の減少であるとか、古式の伝統に興味を持つ者が少なくなっているなど、神輿や屋台などの移動を人力によることが難しくなっているからなのかも知れない。しかもこれだけの重さの神輿である。担ぎ手を賄うだけの檀家の数だって減ってきていることだろう。だから移動手段がトラックになったであろう意味が分からないではない。

 トラックに結び付けられた紐は行列の大勢の人につながっている。だが、その全部の紐は力なく垂れ下がったままで、とても「曳いている」ような雰囲気をそこに見ることはできない。引き手が神楽でも踊っているのならそれはそれで分からないではない。「ワッショイ」の掛け声で神楽を踊るような風習があるのかどうか私は知らないが、声に合わせて何らかの手踊りなどを舞っているのならそれはそれで理解できないではない。でも延々と続く「ワッショイ」は何の動作の合図にもなっていなかったのは、寂しさを超えて無気力の表れのようであった。

 だからそのぶんだけ、「ワッショイ」にはまるで力などなく、その行列からは祭りを祝う気概も渡御を楽しむ意欲も何一つ感じられなかったのである。神輿行列はあたかもまるで熱気のない、力ない「ワッショイ」という声だけを仕方なさそうに繰り返す仮面の行列のように炎天下をのろのろと動いているのである。だから見ている人にも行列からの熱気など伝わるはずもない。「声だけ出ている無表情な行列」、そんなところから祭りの意味や意気込みなどが観客に伝わることなど決してないだろう。

 移動手段がトラックしかなかったのなら、それはそれで構わない。「ワッショイ」に代わる掛け声が見つけられないのなら「ワッショイ」のままでいい。これは祭礼の行事の一つのはずである。祭りは参加する人たちが自らの喜びを伝えるものだと思う。それが「疲れたような顔で力なくワッショイを延々と繰り返す」ことからは決して伝わってくることなどない。

 少し小さな練り歩き用の神輿を特別に作って子供や少人数でも担げるようにするとか、「ワッショイ」に合わせて屋台みたいな台車を曳くとか、開拓神社囃子でも作って神輿の移動に合わせて舞いを見せるとか、私にそれほどのアイディアはないけれど、何か祭りには「ひたむきさ」みたいなものが必要に思えてならない。もし何も見つからないのなら、「ワッショイと同時にその場で飛び跳ねる」ことでもいい。とにかくひたむきさと元気がないと、祭りも神輿もそして渡御の意味も、参加する人たちの意欲から失われていき、同時に見ている人の気持ちに訴えることもないまま祭りそのものが消滅してしまうような気がしてならない。


                                     2012.8.22     佐々木利夫


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