人が歳をとるってことは角がとれて丸くなっていくことだと、そんな風に信じていたのはいつのことだっただろうか。こうしてエッセイを書いていると、加齢とはどこかで世の中に腹を立てていく過程なのではないかと思うようになってくる。発表している雑文を大まかに「思いつくままに」と「どこか変だなと」に分けているのも、私の思いの中に「どこか変だなと感じること」が独立した一つのテーマとして存立しているとのイメージがあると信じていたからである。

 それがこの頃どっちに分類したらいいのか分からないテーマが多くなってきたことに気づき出してきた。もちろん花が咲いたとか雪が降ったなど、まさに「思いつくまま」に入れるようなテーマがないわけではないけれど、新聞を読んだりテレビを見たり仲間などとの出会いなどから感じる話題は、どちらかというと「そうそう、その通り」の感触よりは「ちょっと待ってくれ」と言いたいようなものになる傾向が強い。つまり逆鱗と言うほどではないにしても、どこか素直に納得できない警戒線に触れる話題が多くなっているように思える。
 もちろん何かについて書くのだから、そこに「ちょっと待て」との気持ちが多少なりとも入ることは当然だろうとは思う。思うけれどもその思いがどうかすると「余計なお世話」に通じてしまうのは、やっぱり私が歳をとってきたからなのだろうか。

 人が死ぬことなんて、子供の頃から知っていた。そうした人の運命の中に自分が含まれることだって当たり前に知っていた。加齢が死へ近づいていく過程であることも、そして病気や事故などで若くして死に遭遇することのあることだって知っていた。でもそれは知識としての死であり、実感としての死とは程遠いものだった。それが自分の老いを実感することで身近になってきたことは否めない。それはつまり、他者からの助けが必要になってくる機会の増加であり、そうした機会が多くなってきていることの自覚でもある。

 ただそこで気になるのは、ある行為を受け取る側の思いと、与える側の思いとの食い違いに気づいていくことであり、場合によってはその食い違いがどんどん広がっていっているとの思いでもある。
 その第一は「与える」との無意識の傲慢さがあると感じられること、第二に「与えられる側を一くくりにしてしまっていること」であり、第三に「与える側がその行為を善意だと信じていること」である。この三つは微妙に重なっているとは思うのだが、重なりつつもどこか違っているとも思っている。そしてこんなことを感じるのは、私自身が老いてきたことの証しなのかも知れない。だからそうした思いを年寄りの僻目だと思われてしまうのなら、それはそれで仕方のないことかも知れない。

 第一の視点は「与える」との上から目線である。「世話をしてやっているのだから、感謝されこそすれ文句を言われる筋合いはない」との思いが感じられてならないのである。それはもちろん与える側がそうした思いを抱きつつ与えているとの意味ではない。受ける側の身勝手で被害妄想的な思い込みだと言われればそれまでのことかも知れない。それでも与える側はそうした受け手の思いを想像する力を持つべきだと思うのだが、どうもそれはないものねだりような気がしてならない。

 第二の視点は「受け取る側の一くくり化」である。戦争中などの特別な時代ならともかく、少なくとも現代の私たちは個人の尊厳を基本として生きてきているはずである。それを人権と呼ぶか国民主権だのと別な言葉で呼ぶかはともかくとして、少なくとも「一人ひとりがどれほど大切か」との意識を基本にしてこの社会を生きているはずである。もちろん世界中のいたるところで戦争や独裁や貧困が溢れていることを知らないではないし、そんな世界の中に人権などといった言葉を持ち込むこと自体どこか「ちゃんちゃらおかしい」と思わないではない。それでも今の私たちは一人ひとりとして尊重されることを目的にして生きているはずである。

 それが「与えられる側」になってしまうととたんに、与える側の視点から一くくりにされてしまうのは一体どうしたことだろうか。老人は午前10時になったら一斉に幼稚園児よろしく手拍子を打って「ちいちいぱっぱ」を歌わせられるのである。そうしたパターンは別に老人ホームでの余興だけに限るものではない。そうした「一くくり」が悪意でやっているのだとも思わない。恐らく効率的な視点から求められているのだろう。10人の老人がいて、何か楽しいゲームで喜ばせようと考える。その仕掛け人の抱く老人への思いになんの邪心もないだろうことだって異論はない。むしろ善意のかたまりなのかも知れないとすら思う。

 だが仕掛け人たる世話係りは二人しかいない。二人であることの意味は、その世話係りが老人から受け取る手数料にしろはたまた国や自治体から支給される補助金などにしろ、報酬を得ている者だからである。二人分の手当てで間に合うかどうか私は知らない。現実に二人分しか支給できないという事実が先行する。だから老人一人に対して世話人一人での対応は物理的に困難である。だとすれば10人の老人の好みを四捨五入して多くの老人が喜ぶであろう「ちいちいぱっぱ」へとゲームは移っていく。たとえ小数にしろそのことに気に入らない老人がいたとしたもである。
 それを効率から見た仕方のない現実と考えるべきか、そんなところまで老人の好みに対応することは世話を受ける側の身勝手な我がままだと見るか、その意味が分からないではない。それでもなお私は、どこかで老人を一くくりにしてしまっているような対応に、すとんと気持ちの落ち着かないものを感じてしまうのである。

 そして第三の善意者としての視点である。私は「善意」の意識より「仕方なくいやいややる」ことの方が理解できると言いたいのではない。「給料をもらっているのだから勤務時間内は仕事としてまじめに働きます」との気持ちが見え見えであるよりは、「私は世話をすることが好きなのです」みたいな気持ちで付き合ってもらうことの方がどれだけ嬉しいかが分からないではない。それでもなお私は、「善意は時に鼻持ちならない場合のあること」を感じてしまうことを白状しなければならない。特にその善意を相手が頭から信じ込み、そうした思いに疑いすら抱いていないときにはなお更のような気がする。

 勝者が味わうであろう驕りは勝者だからこそに与えられた当然の報酬なのかも知れない。艱難辛苦の結果として得られた勝者の地位からのしたたりは、血みどろの努力の結果として当然に味わうことの許された報酬だろうと思う。だが強者と弱者が向き合うとき、その趣きは一転する。老人に対するリハビリの介護士の立場は、決して勝者ではないからである。老人の歩行を支える介護者は、確かに頼りになる。気力を失っている患者に自信満々で治療方針を伝える医師の姿は、確かに信頼できるだろう。でも老人や患者を弱者に位置づけたとき、それに対峙する介護する者や医者が、確かに力ある者として存在することに違いはない。だがそれは決して勝者ではないはずである。

 こうした弱者としての様々な思いが、弱者のわがままだと言われてしまえば返す言葉はない。力ある者に向うとき、力なき者はその力に従うべきだとの理屈が分からないではない。しかもその力の背景に善意であるとか慈愛、介護や養護などと言った、いわゆる「あなたのためを思って」があるときにはなお更なのかも知れない。にもかかわらず、私はそうした善意の背景に「余計なお世話」を感じてしまうのである。一人ひとりをないがしろにした様々に、無意識の善意、信じて疑わない善意、決して押し付けではないと思い込んでいる善意、心からあなたのためだと信じている善意・・・、そうした善意の大集団がにこやかな微笑とともにその善意を受け取る人々の弱みにこれでもかこれでもかと押し寄せてくるからである。

 だから私は自動的に勝利者になってしまう者の「いたわりの心」をどこかで「余計なお世話」だと感じてしまうのである。「余計なお世話だ」と相手が感じているかも知れないとの視点を持たない者の心は、その存在だけで驕りに通じてしまうのではないかとさえ思ってしまうのである。たとえそれが弱い者の被害妄想に過ぎず、そうした善意を信ずることなしに他者からの世話など受け入れることはできないだろうと批判されようとも・・・。


                                     2011.12.29     佐々木利夫


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余計なお世話