発明や発見などというのは、理屈では人間や社会の進化を意味しているのだろう。ただその進化の具合と言うのは、これから先のことは分らないけれど奇跡とも言うべき目まぐるしい変化を私に体験させている。もちろんそうした進化の具合を比較する期間は、私が生きてきた第二次世界大戦直後の環境とそれに伴う日本の貧乏、そして現在までのアメリカにつぐ繁栄とに挟まれた期間でもある。

 それは例えば電話一台とってみても、その変化は私の想像を超える。私は昭和15年に北海道の夕張で、炭鉱マンの子として生まれた。物心つくまで、我が家に電話機などというものは形さえなかった。金持ちの家庭や商店にはあっただろうが、だからと言って我が家が特別に貧しかったわけではない。高価な電話債券を購入しなければならなかったし、家庭に電話という発想そのものがなかった時代だったから、個人の家庭にはほとんど普及していなかった。それが現在は、小学生だってスマートフォンを持っている時代である。

 テレビだって、私が個人として所有したのは結婚してからだったから20歳をとうに過ぎていたし、しかも白黒の時代である。そして洗濯機、冷蔵庫、炊飯器などなど、そして更にその延長にパソコンだのインターネットなどがつながってくる。

 洗濯機が普及したことで、主婦の手からあかぎれが消えたことだろう。。冷蔵庫が普及して、家庭での食中毒を減らしたかも知れない。炊飯器も、電熱器も、クーラーも、そしてFF式のストーブも、それぞれ私たちに特別な便利さを与えてくれた。そのことを否定はすまい。それはトランジスタラジオでも、ウォークマンでも同じである。物が幸せを運んできた時代、それも目まぐるしいほどにも大きな変化を伴って運んできた時代のあっことを、私たちは忘れはしない。

 そうした変化が現在も続いている。テレビに色がつき、立体映像が映し出され、映画館かと思われるような大きな画面が家庭にまで入り込むようになってきた。その画面はインターネットにも接続できるようになり、世界を駆け巡る情報の渦をリアルタイムに体験させてくれる。でも、いつの間にか、私たちはそこから幸せを感じることがなくなっていったような気がする。

 テレビの奥行きが30センチも50センチもあった時代から、今は僅か5〜6センチほどへと変化した。電波がデジタル化したせいなのか技術が進化したのか、表示される色もとても鮮やかになった。立体映像は画面から怪獣を生きているかのように飛び出させることができるようになった。かつて、家庭にテレビが届くことは一つの幸せであった。でもそのテレビが厚さ5センチのカラーになったことに、私たちは幸せと感ずることなどなくなったのではないだろうか。

 最近の猛暑でクーラーの売れ行きがいいのだそうである。そこでテレビでのコマーシャル。クーラーの前面に目のようにぐるぐる回るセンサーをつけて、設置した部屋の奥行きやその部屋にいる人数などを感知させ、快適な冷房になるように機械がコントロールするのだそうである。そうした技術によって私たちは、クーラーのかけ過ぎで風邪をひくような心配をしなくても良くなったのかも知れない。

 炊飯器や無洗米の登場は、米をといだり飯が炊き上がるまでの火力の調節という労働から人を解放してくれた。自動洗濯機や皿洗い機は洗うだけでなく、乾燥までやってくれるようになっている。でもそのことで私たちは何を得たのだろうか。

 こうした便利さに対する追求はとどまるところを知らない。食事の支度も同様である。宅配やインスタントが盛んになってきて、そうした先行きに限界を感じ始めたのだろうか。こんどは「手作り感」を大切にするとの宣伝文句で、主婦に「一工夫加える手間」を与えるような半製品の食材の提供が出てきている。もちろんそうしたアイディアはすべて有料である。理屈は「新しいニーズとしてのビジネスチャンス」である。だがそんな手法を「手作り」と呼んで喜んでいいのだろうか。

 また新式の急須を紹介するテレビを見た。なんでも片手で急須を持ったままその手の親指で蓋を押えても、手が熱くならない仕掛けがしてある新製品だそうである。つまりこれまでは片手で注ぐと蓋が落ちてしまう心配があったのに、新しい急須は注ぐ手の親指を使って押えておけるので落ちないといういうことである。もちろんこのアイディアも当然のことながら有料である。
 このことは、私たちが知っている片手で急須を傾け、もう片方の手で蓋を押さえながらお茶を注ぐという仕草が消えてしまうことを意味している。横着と言うべきか、それとも両手を使うことが面倒だと言うことなのか、その答えは分らないけれど、そんなところにまで「いわゆる便利さ」というものが浸透してきていることは事実である。

 こうした「便利さ」へと向かう道具の変化は、私たちがこれまで機械や道具の変化に求めてきた「使いやすさ」とか「幸福感」への追求とは、どこかで違っているような気がしてならない。こんな言い方は、時代の変化や、機械や道具の進化についていけない老人の繰言だと言われればそれまでのことかも知れない。だが私には、最近の私たちを取り巻く様々な商品や製品などの変化が、単なる「手抜き」の奨励にしかなっていないように思えてならないのである。そして「手抜き」の変化の増加とともに、私たちが今まで持っていた「道具から得られる幸福」みたいなものが、どんどん削がれていっているように思えてならないのである。

 別に「幸福感」がないからと言って批判するほどのことではないだろう。便利さを重宝と感じることだって、理解できないではない。ただそうした「便利さ」の影にあって、私たちはそこから何を得てきたのだろうかと、つい余計な心配をしてしまうのである。


                                     2013.8.22     佐々木利夫


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便利さと手抜き