冒険家(この言葉自体がいかにもわざとらしくて私は嫌いなのだが)と称する80歳の日本人男性が世界最高峰たるエベレストの登頂に成功したとのニュースがテレビを席巻した(日本時間2013.5.23日、正午頃)。80歳での登頂は世界初であり、まさに世界に誇る快挙であるとして、あらゆるマスコミがこのニュースで持ちきりである。80歳だろうと85歳だろうと、本人が登りたいというのだから、周りがとやかく言うことではないだろう。でもマスコミ報道があまりにもこの事件について「快挙、快挙」と騒ぎたてるものだから、へそ曲がりの私としては「本当に快挙なのだろうか」と気になってしまった。

 私はこのニュースを「そろそろ登頂を迎える」という数日前からの報道で始めて知ったくらいだから、その計画の経緯や挙行のてん末をまるで知らない。だから知らないままにこんなことを言うのは、予断や偏見があるのかもしれない。登頂の事実を否定したり疑っているのではない。恐らくその80歳の老体が、エベレストの山頂にあったことは事実であろう。ただ私は山へ登るということは、自分で計画し、自分の脚で踏みしめてこその成果ではないかと思うのである。

 だから私は、仮にヘリコプターで山頂まで運んでもらったような場合には、それをその山へ登ったと言ってはいけないのではないかと思っているのである。今回の登頂がそうだったというのではない。自らの足を踏みしめながらの成果であることを否定するつもりもない。ただ私はこの登頂に対するスタッフの多さ、設備の充実などにどこか違和感を感じたのである。経験者や有能なスタッフに背負われて登った、と言いたいのでもない。でもどこかに「おぶってもらって、山頂に着いた」ことに近いのではないかとの思いが湧いてきて仕方がないのである。

 もちろん世界最高峰への登山である。道案内たるシェルパーも必要だろうし、途中途中に設営するベースキャンプの資材や酸素ボンベの搬入など、登山者以外に様々なスタッフが必要とされるだろうことも分る。ヘリコプターで頂上に着いたというのではないにしても、現地までは航空機などを利用したのだろうし、登頂の第一歩が海抜0メートルから始まったのでもないだろうことも理解している。それは恐らく程度の問題なのかも知れない。

 私が標高313メートルの札幌市にある三角山に自力で登ったと言ったところで、私は自宅からJRを利用して琴似駅まで電車で運ばれ、更に事務所までの標高数メートル分を通勤として歩いてきた事務所からの出発であり、そもそも始発点たる我が家そのものが海抜数十メートルの位置にあるだろうから、私の事実としての登頂記録は2百数十メートルでしかない。だから厳密に言うなら、私は標高313メートルの三角山を自力で制覇したとは言えないことになる。それでも「私は三角山に登ったよ」と言えるのは、頂上に立ったこと以外に出発点の標高差などは無視してもいいような社会の常識があるからなのだろう。

 それでも私がその三角山の五合目まで、更には八合目までを他人に背負われて到着し、残りの僅かを自分の脚で歩いたとしたら、それを「丸ごと三角山を征服した」と言ってもいいのだろうか。それが許されるなら九合目まで、もしくは頂上の数メートル手前まで誰かに背負われて最後の一歩を自力で達成した場合も、登頂成功として表明してもいいことになる。でも、それはやはり変である。だから程度の問題なのかも知れない。山腹までは車で行く、登山口までは背負われていく、三合目まではヘリコプターで行く・・・、こうした延長のどこかで「自力で登頂に成功した」とは言えない状態が発生するような気がしてならないのである。

 今度のエベレスト登頂にも同じことが言えるのではないだろうか。いかに普段から鍛えていると言っても80歳の老人である。もしかしたらこれが最後かも知れないと自覚している老人の登頂である。それなりに必要なスタッフを揃えることは、むしろ当然のことかも知れない。
 私はそうしたスタッフを用意したことをどうのと言いたいのではない。そこまでしてエベレストに登りたいと思った本人の気持ちを否定するつもりもない。なんならヘリコプターで山頂を目指したところでそれを批判しようとも思わない。準備することは一面金の問題でもある。ジェット機を購入して山頂はるかから落下傘降下をしたところでそれは金持ちの道楽と言われるかも知れないが、その人の自由である。でも登頂を取り上げたマスコミの騒ぎ方には、どうしても違和感を覚えてならなかったのである。

 私には通常の登山家が計画をたてるであろうルートの決定や装備の用意、途中のキャンプ設営のための資材やスタッフの手配など、資金の獲得や実施の手順などをまるで知らない。それでもエベレストがまさかに自宅から山頂までを自分ひとりで敢行できるような手軽な山でないくらいのことは理解できないではない。だからどの辺までのスタッフ頼みが通常で、それを超えたら依存過剰と判断されるのかもまるで知らない。ただ完全単独挙行を依存度ゼロとし、ヘリコプターで山頂に着地するのを依存度100とするなら、この間のどこかに「自力で登攀した」との宣言を疑問視してもいいような基準点が存在するだろうことは分る。

 さて問題はこの基準点が、登山者の経験や年齢や資金力、さらにはその時代の移り変わりによって変化するのだろうかと言うことである。まあ極端に言うなら年齢だけに限定しても構わない。20歳代なら20点くらいまでなら依存しても完全単独登頂と言ってもいいがそれ以上なら依存過多としてダメだとか、50歳台なら50点、100歳になったらヘリコプターで運んでもらっても自力登攀と自慢してもいいと言うような社会的な約束が暗黙のうちに成立しているのかも知れない。そうだとするなら、私の感じている違和感はなんの根拠もない単なる偏見ということになる。

 私が見た数少ないこの「80歳の快挙」の映像には、何人ものスタッフが付き添っていて手を引き腰を押しての、まさに「おんぶにだっこ」の登頂のように見えたのであった。崖を登り雪道を踏みしめる映像に、スタッフに背負われているような場面こそなかったけれど、もしかしたら意図的に放映しなかっただけではないか、実際には腰に結びつけた命綱を他人に引かれてかろうじて引っ張りあげられ、時に背負われるような場面もあったのではないだろうかと思わせるようなスタッフとも援助者とも補助者とも言える人数の多さが感じられた。

 どんな方法で登ろうとそれは本人の自由だと思う。だがそれを快挙だとして繰り返し報道するマスコミの姿勢に、私はどこか違和感を覚えて仕方がなかった。例えば点滴を受けながらのまさに瀕死の100歳が、ヘリコプターにベッドごと載せられてエベレストの山頂に下ろされる、それを本人が「私は100歳にしてエレベスト登頂に成功した」と自賛し、仮にその場で臨終を迎えることがあったところで、それはそれでかまわない。私には「エレベストに登頂した」ことと「エレベストの頂上へ行った」ことの間には大きな違いがあると思うのである。この違いを検証することなく行ったことがいかにも自力登攀でもあるかのように騒ぎ立てるメディアのはしゃぎぶりに、へそ曲がりはどこか納得できないでいる、ただそれだけのことである。


                                     2013.5.31     佐々木利夫


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エベレスト登頂という快挙