今週のエッセイのテーマとして、行政のサービスについて書いていて、半年ほど前のテレビで薬の副作用による被害の補償を求める手続きをしている、こんな風景を見たことを思い出した。

 薬の副作用で被害を受けた者がその救済を求める制度が法律で定められている。恐らく薬を適法に入手し、しかも指示通りに使用したにもかかわらず、副作用が起きてしまった場合の補償を定めたものだろうことは、そのタイトルからも想像できる。ただテレビのなかで、「この制度については、医師も十分には知っていない」と言っていたから、薬害被害者も回りの人もどこまで知っているかどうかは疑問である。

 ネットで調べたところ、この制度は平成14年に作られたそうなので、まだ10年ちょっとしか経っていない。許可された医薬品や医療機器の製造販売業者からの拠出で運営されている制度らしい。どこまでその内容が国民に周知されているのか、少なくとも私の耳にはこのテレビ以外に情報は届いていない。

 このテレビでは、一人の老女がその申請書類を作るため、相談窓口らしい女性スタッフを訪ねるところが紹介されていた。若い女性は老女に向かって「ここに生年月日を書いてください」、「ここに署名してください」などと指示していた。言われた老女は一生懸命にペンを走らせていた。

 そしてテレビは、分厚い大型封筒に書類を入れそれを郵便ポストに投函するまでを、丁寧に追いかけていた。申請書は数枚であろうから、この封筒には医薬品の副作用であることを証明するための、様々なカルテや検査書類のコピーなどが同封されているのだろう。

 そのことはいい。ただそれにもかかわらず私は、「申請した者を救済する」とする支払い者側の姿勢にどこか救済の精神から外れているような感じを受けて仕方がなかった。番組の解説者も、「記載漏れ」や「添付漏れ」があると救済されないことを告げていた。

 それはそうだろう。被害を受けたことを正しく証明しない者にまで、救済の恩恵を与える必要などないからである。私が市販薬を飲んで「腹が痛くなった」とだけ主張し、仕事も休むこともなく、医者にもかからず、更には特に症状的にも被害を受けていないようなのにもかかわらず補償を請求したところで、支払い者側としては「本当に医薬品で腹が痛くなったのか」を確認することが出来ない以上、申請を却下するしかないだろうからである。
 そうした意味では、「被害を受けた」とする者の側に立証責任があり、その被害を医師の診断なり検査結果なりで具体的に示す必要があることは理解できないではない。

 ただ私はこのテレビに映っている老女の姿を見て、そうした申請手続きをすることがどれだけ大変なことかと思ってしまったのである。テレビで指導している女性は、書類を指差して「そこを○で囲む」、「ここに住所」、「ここに判子を押して」・・・と指図していた。それを聞いた老女はそれでもその指図された場所が分らずにうろうろとペンを迷わせている。大型の封筒に書類を詰めてポストに投函するまで、この老女はどれほどの手数と時間と混乱の思いを抱いただろうか。

 そしてそれ以前の問題がある。この老女はこうした救済制度のあることをどこからか知らされたから、こうして書類を作ることができたのであろう。その前段階として、そもそも「制度を知らない者に救済される権利はない」ことがある。申請があってから内容を審査して該当するかどうかを決める、これが窓口の仕事である。それは「申請のない者は救済しない」ことと同義である。つまり、「声を上げない者は救済しない」ことを意味している。

 私はこのテレビ放映をみながら、「求めない者には与えない」ことの正当性を認めながらも、視覚化された映像の中に、どこか不自然な思いを抱いてしまったのである。本人がそうした救済のあることを知りながら、申請を自らの意思で放棄したのなら、それはそれでいい。救済がいらないと思ったり、手続きが面倒なので(余りにも複雑な手続きを求めているのなら、そのことにも疑念はあるのだが)やめたとか、救済の程度が余りにも小さくて手続きに見合わないなどで、いずれにしても本人が内容を理解して手続きを放棄したのならそれはそれでいいだろう。それはまさに自己責任であり、権利の上に眠る者まで保護する必要はないからである。

 でも「求めない者には与えない」との発想と、「権利の上に眠っている」こととは、私の中でどうにも一致しないのである。もちろん「分っているけど、めんどうくさいからやらない」という人がいないではないだろうけれど、「そうした制度を知らなかった」というケースのほうがずっと多いのではないかと思えるからである。

 こうした事例は、ここで取り上げた薬害被害者救済制度のみに限るものではない。恐らく国民が利益を受けるであろうほとんどの事柄に言えることではないかと思う。それが税金の還付を受けるとか高額な医療費の還付給付を受けるなどの金銭的な利益ばかりではなく、営業許可や運転免許証の期限の失効のような反射的な利益の得喪であれである。

 そうしたことのすべてを、本当に国民個々の自己責任だけに負わせてしまっていいものなのだろうか。無数とも言えるような数多の当然受けられる利益の享受を個々人の自己責任のみに委ねてしまい、不利益となるすべてを必要な申請などの声を上げる手段をとらなかったことに負わせてしまっていいのだろうか。そしてその応答すべき義務を負う組織の、支払義務を免れたとする主張を無制限に許してしまっていいものなのだろうか。

 私の言っていることが、実現不可能なシステムを強いているのではないかとの思いを否定はしない。対象者は不特定多数とも言える広がりを持ち、一方申請を受け付ける側の窓口もまた多岐である。でも申請を受け付ける窓口や失効するかも知れない権利を付与した窓口などには、様々な情報が残されているはずである。たとえ直接の窓口でなくても、関係する機関には関連する情報が蓄積されているはずである。

 たとえばここで取り上げた副作用被害者救済制度であれば、病院や医者、薬局や薬剤師、市区町村の健康保険関係、さらには保健所や無関係かも知れない相談所などなど、救済制度の情報は蓄積されているいるはずである。そうした機関が「相手から話しを聞く」、そして「親身に相談に乗る」との意識を持つことができるなら、不特定多数対無限の窓口という複雑で不可能とも思えるネットワークといえども、とても筋道の通った直線的な関係へと収斂させていけるのではないだろうか。




                                     2013.9.7     佐々木利夫


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