どんな場合だって、人間同志が向き合う場面では互いの信頼関係が必要になるだろう。人によってはペットや家畜などなど、動物との間にも同じように信頼関係が必要だと言われてはいるけれど、残念ながら私には動物とのつき合いがまるでないから、そのことに触れるのは止めておくことにしよう。

 その相手が医師であっても信頼は必要どころか不可欠である。医師との関係と言っても、転んですりむいた傷の手当をしてもらうようなどうでもいいような場合から、命にかかわる大手術のような場合まで幅広いものがある。ただ多くの場合、医師は専門家として分化しているから、何らかの身体にしろ精神にしろ、我が身に不都合を抱えていて、それを解消すべく医者に相談するのが一般的な例だろう。仮に命にかかわるほどの重篤な場合でないにしても、痛い・苦しい・どうしていいか分からない・・・、などの症状があって、そうした症状の改善を求めて医者の前に座るのが、一般的に私たちが期待する姿勢ではないかと思う。

 そしてその背景にあるのが「医者を信じること」である。政治家にしろ学者にしろ、はたまた医者やセールスマンの説得にしろ「とりあえず疑ってかかる」ことは、私たちが健康にしろささやかな預貯金にしろ、我が身を守っていく上での基本な姿勢なのかも知れない。だが私たちはあまりにも無知である。これほどまでに分化した世界に住んでいると、人生のすべてを自己責任に委ねることなど不可能になってくる。かく言う私だって、税理士という税法の専門分野の相談、つまり税法の無知という人質を飯の種にしていることに違いはないだろう。

 そうしたとき一番身近で、しかも無知な分野に医師がいる。これからの日本がどうなる、年金の将来は、消費税の行方は、少子高齢化と介護の行く末はなどなど、国民が政治や行政に求めるものは様々だし、尖閣列島や北方領土を巡る日本の国防の将来なども避けることのできない重要なテーマではある。

 それはそれで大切だし重要であることは論を待たないが、それよりも腹が痛い頭が痛い呼吸が苦しいなどなど、我が身の苦痛の方が当面の問題としては何にも増して解決を望む一番の出来事である。花粉症の季節になった、湯上りのまま裸でいたせいか風邪をひいてしまった程度のことなら自己診断することはできるけれど、それとても「風邪は万病のもと」なんて言われてしまうと、その自己診断もまた危うくなってしまう。

 多分個人的な好悪による場合が多いとは思うのだが、医師の信頼についてはこれまでもいくつかここへ書いたことがある(別稿「医師・・・」参照)。そうした思いとそれほど違うのではないのだが、最近読んだネットの記事に少しやりきれないものを感じてしまった。

 ネットでは患者側が一方的にサイトに症状などを投稿し、それを読んだ医師が回答するようなものがいくつかある。そんな中での医師と患者のこんなやりとりである(2013.1.30 Ask Doctors Mail)

 質問 一ヶ月程前から、立ち上がった時や動悸が起きている時に心臓の拍動に合わせて視界も動いている事に気付きました。眼科で診てもらった所、そのような症状はあまり聞いたことがない。また検査でもまったく異常はないから、考えられるとしたら脳の方か自律神経の乱れだと言われました。・・・脳神経外科でCTを撮りましたがやはり異常はなく、・・・医師からも「自律神経かなぁ」と言われました。・・・(20代女性)

 
A先生の回答 目は大変栄養を必要とする器官であり、多くの血液を必要とするため、その大きさに似合わないくらい大きな血管がつながっています。そのため、手首の動脈で心拍が測れるように、血圧の差が大きい時には眼球に拍動が伝わり、「立ち上がった時や動悸が起きている時に心臓の拍動に合わせて視界も動いている」ように感じることがあります。自律神経ではなく、誰に起きてもおかしくない現象です。

 
質問者からの返事  安心できました。とても解りやすい説明ありがとうございました。安心できました。また何かありましたら、ぜひ宜しくお願いいたします。

 質問者が「安心しました」と言っているのだから、質問者とも回答した医師とも無関係な私がこのやりとりにどうのこうの言うほどのことはないだろう。質問者が医師から「誰にでも起きることなので心配することはない」と言われてホッとしていることに難癖をつけるつもりはない。ただそれでもこの応答には、質問と回答、そして質問者の安心というストーリー以外に患者と医師の信頼という基本的なテーマが含まれているように、私は思えたのである。

 私にはこうした現象の経験はないのでどんな状態なのか分らないけれど、質問者は心臓のドキドキによって視界が揺れるように感じることに不安を感じているのである。そして眼科医をはじめ脳神経外科医に何が原因かを調べてくれるように頼んでいる。それに対してこのネットの回答医師以外の、質問者が実際に通院して検査してもらった病院のいずれからもはっきりした原因が分らず、つまるところ「異常はありません」との回答だけで放置されているのである。

 どんな病気でも医者に行けば直ちに原因と対処方法が分るとは思っていない。医者だって万能ではないことくらい当たり前のことだから、時に難病、時に誤診、ときに勉強不足などで「分らない」と答えざるを得ない場合だってあることだろう。そしてまたどんなに努力したところで「不明な病気」が存在するだろうことも理解できないではない。

 最近見ているテレビの洋画ドラマに「Dr ハウス」というのがある。まさに原因不明の病気に立ち向かう怒りっぽくて皮肉屋で偏屈な天才医師とそのスタッフ医師3人による原因究明のドラマであるが、ある症状に対してこんなにも予想される病気が存在するのかと驚かされる場面が延々と続く。ドラマだから1時間後には原因が分って患者は快方に向かうのだが、それでも想定した治療が効果を示さない事例の連続は、医療の現場の困難さをあからさまに示してくれているように思える。

 だがこの心拍と視界の揺らぎの不安には、こんなドラマはない。なぜなら、A医師の回答が本当だとするなら、こうした現象は「誰に起きてもおかしくない」ことだからである。この記事からはA医師の専門が眼科なのかどうかは不明であるが、恐らく回答内容から見て眼科医と見ていいだろう。その医師が「誰に起きてもおかしくない」と言っているということは、そして回答内容から想像するに「特に病気でもない」と言っているように思えることからするなら、実際に診察した眼科医が「そのような症状はあまり聞いた事がない」と患者に向かって話したことをどう理解したらいいのだろうか。

 この相反する意見を持つ眼科医のどちらの意見が正しいのか、私には理解するだけの知識はない。だから一方を糾弾し、他方を信頼することは間違いを犯すことになるのかも知れない。だからこそ私は思うのである。相談者はこのネットの回答を信じたのである。恐らく「特に心配はいりません」との回答だったことがその根拠になったのかも知れないけれど、それでも信じたのである。

 信じたのだから、質問者はそれで納得したのだろう。でも、「心配いりません」との回答が正しいのだとしたら、「誰に起きてもおかしくない」現象を最初に訪れた眼科医が「あまり聞いたことがない」と答えたことをどう理解したらいいのだろうか。「誰に起きてもおかしくない」症状であるという状況は、その症状を知っていることが少なくとも眼科医にとっては普遍的で当たり前であることを意味していると私には思えてならない。にもかかわらず、最初の眼科医はその事実を知らなかったのである。それは勉強不足などで片付けられる問題ではない。医師としての基本的な資格の問題である。

 では反対に「誰に起きてもおかしくない」と言った医師の判断が誤りだったとしよう。その場合、最初の医師が「こんな症状は聞いたことがない」と言ったことの意味は、場合によっては「病気でない」ことも含まれるかも知れないけれど、「重篤な病、未発見の病、特殊な病」である可能性だってあるだろう。そうした専門医でも知らない病であったために仮に病が悪化したとしても、どこまで許せるかはともかくとしてそれはそれで納得できる。でもそんな病をあっさりと「誰に起きてもおかしくない」と言ってしまうのは、嘘や誤診を通り越して犯罪にも匹敵することではないかと私は思う。

 私たちは資格があるというだけで医師の本当の姿を知ることなどできるわけがない。つまり、私たちは看板によって「医師を信頼する」以外にその評価を知ることはできないのである。私はこのまったく対立する眼科医の判断について、医師の信頼が根元から問われているような思いを抱いたのである。

 セカンドオピニオンという制度を知らないではない。一人の医者をどこまで信頼できるかが、治療の場でも問われていることを示しているのかも知れないけれど、「分りません」と「心配いりません」との間で揺れる患者としては、医療難民というのか、はたまた病院の診察カード集めみたいな状況に置かれるのか、いずれにしても患者に向き合ってくれない医師への不信は、これからもますます募っていくのだろうか。



                                     2013.1.1     佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



医師と信頼