情報と広報との違いさえきちんと理解していない私だから、こんなタイトルを掲げる自体がどこか不遜のような気のしないでもない。それでも情報過多とも言われている現代だから、情報なしに私たちの生活そのものが成立しないだろうことくらいは分っているつもりである。

 世の中、少子高齢化や情報の氾濫が加速度的に進んできて、そのことに高齢者がついていけない状況が広がってきている。そしてその極端なギャップがいわゆる「自己責任」との競合ではないだろうか。つまり、「情報はきちんとお届けしてあります。あとはご自分の責任でどうぞ・・・」のような一方通行が、世の中に氾濫しているような気がしてならないのである。

 それは一方的に「氾濫」と位置づけるのは間違いかも知れない。数多くの情報の中から人は自らの必要なものを選択し不要なものを捨象していくのは、義務というよりは生きていくことそのものであると言ってもいいだろうからである。だから私がこんなことを考えること自体の中に、自らの選択能力の欠如が萌芽しはじめてきていることを示す証拠が見えているのかも知れない。

 自然の中で生育し、または路傍に放置されている「食えるかもしれないもの」に向かった私たちの先祖は、それが毒キノコやふぐや腐敗がはじまったような動物の死骸であったとしても、臭いや味などを頼りに、そして幾多の危険の試行錯誤を繰り返すことで生き延びてきたことだろう。それはまさに命がけの自己責任の積み重ねであり、そうした危険の積み重ねの中に私たちの今があると理解してもいいくらいだと思う。

 そういった意味では、現代もまた生き延びるための自己責任は、私たち個人個人に、形は違うかもしれないけれどのしかかってきていると言われてしまえばそれまでのことである。でも私たちは、行政やメーカーや販売店などに、私たちに理解できる言葉で情報を提供してもらうことの必要性を繰り返し求めてきたはずである。「理解できる言葉」というのは、まさに私たちに選択が可能であるような情報の提供という意味である。提供する側が分るのではなく、受け手が分ることが提供者の義務なのだと私たちは繰り返し求め、そして実現したのだと思っていた。

 だが現実は違う。自己責任という言葉の意味は、「選択の責任と結果を選択者が負う」ということである。そのことの意味が分からないではない。目の前に二方向への分かれ道がある。右は断崖絶壁へと続き、左は肥沃で平和な土地へと続いている。右の道を選んで断崖から落ちて死んだとしても、それは右を選んだ者の自己責任だと人は言うかもしれない。提供された情報と、そして自らの選んだ行為と、更にその結果だけを見るなら、その因果律をその人に負わせることに問題はないのかも知れない。でも、右の道が断崖絶壁に通じていることを情報の提供者が知っていたにもかかわらず、単に分かれ道の看板を立てるだけしかしなかったとするなら、その結果責任を選択者に負わせることはできないだろう。それはむしろ、提供者の側の責任だろうからである。

 去年の新聞だがこんな記事が掲載されていた。

 「大地震の予測 数字に惑わされず正しく恐れる。 地震の予測がインフレを起こしている。内閣府は南海トラフのマグニチュード9.1の地震で津波が最大34メートルとの想定を発表。・・・『首都圏でM7級が4年以内に70%の確率で起きる』との予測で、『家を建てるのは4年待つ』と話す人がいた。・・・『正しく恐れる』。よく知られた災害の教訓を改めて思い起こしたい」(2012.4.20、朝日新聞、記者有論)。

 この記事の言葉としての意味が分からないというのではない。だが筆者は結局何を言いたいのだろうか。発表された数値のどこまでを基準にして行動せよと言いたいかがこの文章からは伝わってこない。「4年以内の確率予報なので4年待ったら安心できる」ことが無意味であることくらいは分る。でも「4年以内に70%の確率で起きる」との発表を、専門家でもない私たちはどんな風に理解したらいいのだろうか。

 「明日にも地震がくる」、「4年以内なのだから4年待つ」、「確率なのだから信用しない」・・・、色々な選択肢の中から私たちはこの情報を読み解いていく。「4年待つ」との選択を愚かだと切り捨てるのもいいだろう。「確率を信じない」ことの誤りを指摘することもいいだろう。この記事は結論として「数字に惑わず正しく恐れる」ことの選択を読者に強要する。間違った選択による恐れは、つまるところ自己責任ということであろうか。私にはこの記事が、しごくもっともらしい表現を使いながら、結局は何も言っていないのと同じではないかと思えてならないのである。

 「地震への備えはできていますか? 防災専門家に備えを診断してもらう。・・・非常用持ち出し袋・・・『お子さんの分も含めて食料も水も足りません。こんな備えでは死んじゃいます』・・・『防災を日常に取り込むことか大事です』・・・手回し式ラジオ、両手が使えるヘッドライト、LEDランタン、簡易トイレ、軍手・・・」(2013.1.15、朝日新聞)。

 この地震の備えに対する自己責任は、普段から心がけるべきこととしてまだまだ続く。

 「・・・フェイスブックなどのソーシァルメディアで知り合いをさがしておく・・・普段から仲間とのホームパーティを開いて親交をあたためておく・・・折りたたみ傘の常時持参・・・普段からカバンにチョコレートやドライフルーツを・・・携帯電話には呼子(笛)をつける・・・家具の固定・・・寝るときはめがね、入れ歯、常用薬を枕元に・・・口腔ケアのためのウェットティッシュの常備・・・」(2013.1.16、朝日新聞)

 たかが・・・、と言ってしまったら発信者に叱られそうだけれど、たかが地震の備えでさえこんなにも用意しておかなければならないのである。しかもこんなに備えたところでそれでも万全とは言えないだろう。避難経路のチェックだとか、自宅が耐震建築になっているかどうか、ラジオテレビの防災信号や防災無線の確認などなど、地震だけに限ったところで注意しなければならないことがらは山のようにある。

 そして人は生きて生活している。地震への備えだけが生きていることのすべてではない。病気や近隣との付き合い、もっともっと小さいこと例えばテレビのスイッチの入れ方からトイレの電球の取替え方法、どこに何をしまっておいたかの始末まで、人には備えなければならないことが山のように控えている。

 最近のテレビ番組で見たのだが、東日本大震災で被災した村で、村民のためにタブレット端末を無償で配布したのだそうである。二回のタッチで目的の情報に届くように設定されているほか、知人と映像つきでインターネット会話できるのだそうである。だが老人にはどうやって使っていいか分らないし、教えてもらったらしいのだが操作方法を記憶しておくのはとても難しいのである。端末は仮設住宅の隅にほこりにまみれていたり、梱包されたまま開いてすらいない人もいた。

 私はこの端末の配布を無駄だと言いたいのではない。ただ、情報を提供する側には、きちんと教えさえすれば教えられた人は無限の記憶力を持っていて忘れることなく理解してくれるとの錯覚があるのではないかということである。そしてそうした「きちんと教えた」との事実をもって、教えられた人に対して「あとは自己責任」であり、仮に不都合があったとしても「それは利用する側が悪い」のであって、「教えた側は免責される」との思いが凝り固まっているように思えてならないからである。

 「あのときちゃんと言っておいたのに」は決して伝えた側の言い訳にはならないと思うのである。高齢化が進み、情報が溢れかえっている時代を迎えて、私たちが「自分でしなければならないこと」として強制されたり「知らないことで損をするのはあなたなのよ」みたいな論理で突っ放される環境が、周りに溢れてきているように思う。

 でも私は思うのである。そうした自己責任という論理にひっくるめられた様々な理屈は、外見上はいかにも「自己、つまり本人の責任」のよろいを被っているように思われるけれど、その実それらの全部が「勝者の論理」から出来上がっているように思う。その「勝者」を権威とか権力とか実力者などなど、力ある者と言い換えてもいい。そうした力ある者が一方的に力なき者に宣言しているのが自己責任の実体なのではないだろうか。

 例えばこのエッセイの冒頭に掲げた新聞記事である。「防災はその人その人の日ごろからの心がけが大切だ」といいたいのだろうが、もし私の住んでいる建物が耐震性においてもしっかりとしており、または津波の来ないような高台に建てられていたのなら、そしてそれを国や行政がきちんと監督し必要な食料や燃料や水などを安全な場所に備蓄をしていたのなら、ほとんど必要がなくなるのではないだろうかということでもある。

 「そんなことをするような金がない」と言うかも知れないけれど、もしそうなら、それは金のないことの責任であって、そのつけを弱い者に押し付けていいことの理屈にはならないような気がしてならない。世の中の正義であるとか「べきだ・・・」みたいな理屈のほとんどが、私には「しなければならない人や行政や国など」の勝手な理屈から出てきており、自己責任とはそうした人たちの責任逃れの言い訳になっているように思えるのである。

 「なんでもかんでも他人(ひと)まかせ」には、その他人のなかに行政や保護者が入るとしても反発はある。基本的には自分のことは自分でするのが当たり前だと思うし、自分が選んだ結果は自分で責任を負うべきだとも思っている。でも一方において「なんでもかんでも自己責任」とすることにも、どこか切ないものがある。特に情報が氾濫している現代において、人間はこれまで当たり前と思われてきた「自己責任」についていけなくなっているのではないだろうか。そうした「当たり前」と「ついていけない」自己責任の間に、そしてその選択の多様性の中に埋没してしまいそうな自分と現代とを私は感じてしまうのである。


                                     2013.1.23     佐々木利夫


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自己責任は誰のため