私はこんなに悲しい言葉を始めて聞いたような気がする。「私は人生のなかで、自分の感情をかくすことを覚えました」。ナチス直属の組織で働き、婚約者を戦争で失い、ナチスに協力したことの責任をかろうじて免れたドイツの老女が語った一言である(澤地久枝、一千日の嵐、P147)。

 人はたとえそれがどんな人であっても、人生の中で自分の感情を隠すことは避けられないだろう。人はそうすることによって生きながらえるのだと言ってもいいのかも知れない。それはナチスへの協力だけではなく、普通の人が普通の人生を過ごしていくことにも言えることだろう。だが、この老女の一言は、そんな私の甘っちょろい考えを、微塵に打ち砕く。それは私にはこの一言に、この国とこの時代とを重ねることで、はっきりと理解することができるように思える。

 権力はどこまで残酷になれるのだろうか。ナチスを絶対悪と図式化し、しかも「現実に起きたこと」として定式化してしまうことは、とても分りやすい。「茶色の朝」(フランク・パヴロフ著)という本を読んだことがある。一種の童話絵本である。犬の毛並みでも電車の色でも茶色が正しいと思い込まされ、その傾向に順応し次第に権力者から茶色以外に興味を持つことは悪とまで評価され強制される物語である。その強制は、過去に抱いていた茶色以外への好みすらも許されない状況へと人びとを追い込むようになる。

 物語の進め方に必ずしも私はついてはいけなかったけれど、強烈なナチス批判だとその本の解説者は語っていた。ナチス=絶対悪、と図式化し、しかも「現実に起きたこと」に結び付けて定式化してしまうことは、物語を進める上でとても分かりやすい。でも私には、そうした理解は余りにも人の生きている現実の姿を理解していないように思えてならなかった。

 権力や権威に対して「無意識に順応し、流されていく人間の習性」を危険だと定義することは、あながち間違いとは言えないだろう。選挙でも、日常の買い物でも、メディアに表れる様々なコマーシャルも、そうした人間の習性をどこかで利用しようとしているだろうことは否定できないからである。

 「茶色の朝」の主人公は、茶色であることに次第に慣らされていく。最初に感じた少し変だなと思う気持ちも、「まあ、特に私の毎日の生活に差し障りもないのだし・・・」と無関心になり、そのうちに「茶色だって特別変ではないかも知れない」と次第に順応していく。そしてやがて茶色以外は犯罪であり、過去に茶色以外に興味を持ったことすら糾弾され捕えられ投獄されるまでに、茶色推進派は力を持つようになる。

 だから「常に疑問を持て、その疑問を常に声に出していこう」と訴えるのは、一面の真実を衝いているかも知れない。ただ私は、それは茶色=ナチスと定式化してしまうことの結果、それもナチス=絶対悪と評価してしまう判断から得られた検証なしの独断なのではないかと思えてならない。茶色が仮に「世界平和を願うこと」、「他人には優しく」と言ったことだったとしても、人は茶色の浸透をどこかで疑問視しなければならないのだろうか。

 それはそうかも知れない。平和や正義などと言った言葉だって、その影に何が含まれているかは検証なしに信じてはいけないのかも知れない。そんなことは日常の私たちが、どんな場合にも遭遇している事実だからである。「常に疑問を持て」は、ある意味真実を衝いているかも知れない。だがその言葉は同時に「何事も信じるな」と伝えていることにもなる。「何事も・・・」とはまさに「何事も・・・」であり、親も学校も社会もメディアも、もしかしたらあたかも事実のように見えている、放り上げた石は地上にやがて落ちてくるという現象でさえもである。

 例えば、自民党が「憲法を変える必要がある」を公約に掲げて選挙を戦うとする。そうした行為を大衆にばれない様に日本の再軍備化を狙っているからなのだと図式化してしまえるなら、答えは簡単である。茶色がナチスなのだから、ナチス化しないように、されないように人は賢くなれと言うのと同じだからである。

 それでも人はどこかで信じなければならない。疑問を持つことを推奨する人は、「自分で頭で考えろ」と言うかも知れない。茶色を信じた人びとは、やがて茶色である世界に飲み込まれてしまった。だから「信じるな」と警告するのはたやすい。それは茶色が絶対悪だということを、理屈抜きの前提にしてしまっているからである。

 「誰も信じない」ことが果たして正しいのだろうか。「自分で考えること」と言うのは、果たして本当に「自分だけの頭で考えたこと」なのだろうか。私が何かを考えるとき、まず日本語で考えることだろう。でもその考える道具としての日本語は私だけの言葉ではない。誤解も曲解も含めて、私の思いは過去の知識から導き出された日本語で構成された答えである。それは決して私だけのものではない。昨日読んだ新聞記事に影響されているかも知れないし、今朝のニュースの解説に無意識に同調したからなのかも知れない。また中途半端な事実認定をしてしまったことによる誤った結論かも知れない。
 更には「私が考える筋道」そのものだって、純粋な意味で私自身のオリジナルでない可能性だってある。小学校で習った教科書や先生の考え方などが影響しているかも知れないし、かつての職場での仕事に向き合っていた姿勢が長い公務員生活の中で私の思考過程に影響を与えていることだって考えられる。

 つまり人はそれぞれ「個」としての生き物ではあるけれど、その行動には個人に影響を与え、もしくは無意識に学習した様々な環境因子が寄与しているということである。それが「本来の個」なのだということも可能であろう。無数の環境から影響をうけてきた「私」という「個」は、それ自体他者のコピーではないのだから、そうした歴史的というか時間的に影響を受けつつ形成された一つの個体もまた、「個」としての特質を持っていると言ってもいいのかも知れない。

 それでも私は私自身のオリジナル性が、どこかで信じられないような気持ちになっている。私はこの文章の冒頭で、「感情を隠すことを覚えた」との一言を悲しい文章だと書いた。それは、彼女が生きていたナチスに所属していた過去を隠すことの悲しさもさることながら、「隠すことが彼女の人生になっていた」ことに悲しさを感じたからでもある。そのことを批判したいのではない。彼女の生きた方に共感しつつも、そのことに「信じない」ことが現代の多くの人びとに染み付いてしまっている現実に重ねるとき、「今の世」がどういう意味を私たちに伝えようとしているのかをしみじみ考えさせられたからであった。


                                     2013.6.25     佐々木利夫


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