来月7日に参議院議員の選挙が行なわれるようだ。自民党は前回の衆議院選挙で過半数をとったが、参議院は野党のほうが過半数で、いわゆる衆参でネジレ状態になっている。ネジレもまた国民が選択したとの意味では、そうした状態を一概にいいとか悪いとかは決め付けられないだろうし、その辺はさまざまな議論があることだろう。しかし衆議院で与党となった自民・公明にしてみれば、衆議院の議決が参議院よりも優先するケースは予算案等の限られた事案にしかないから、どうにもやりずらいことになる。

 だからこそ一党支配の弊害をなくすため野党にも配慮した政策が必要で、それこそが国民の意思でもある、とする考えにつながるのだろう。ともあれ与党としては反対党が参議院に多いのは始末がわるいことは否めない。そこで参議院でも自民・公明が過半数を得ようと必死のようである。

 それには選挙の目玉となるマニフェスト(政策)が必要になる。不況の続いている昨今だし、高齢化にともなって年金・医療など国からの援助を必要とする人口も増えてきているから、日本の経済的に発展することが一番の目玉になってくる。しかも日本は世界で最大の借金国であり、財政健全化も同時に達成しなければならないというジレンマも抱えている。ならば与野党が衆参でネジレ状態になっているよりは、「自分の思うとおりにさせてほしい」、それには参議院でも自民党を中心とした与党の過半数を確保したいと思うのもまた当然のことである。

 ただそうした思いの中に、憲法改正論議が含まれている。憲法改正は絶対護憲を主張する党もあるけれど、多数の党がその内容はともかくとして改正の必要があるとしている。自民党もすでに改正案の全文を示して世論を喚起しようとしている。とは言っても今度の参議院選挙での争点となるのは全面改正の主張ではない。まず手始めに自民党の掲げた改正は、憲法96条の変更である。

 96条は憲法改正の手続き規定である。現行憲法は憲法改正の要件を、国会議員全部の三分の二による改正案の発議と国民の過半数の国民投票による承認を掲げている。このうち改正案の発議を国会議員の過半数にしょうとするものである。自民党の意見は、国民の過半数が改正を望んでいても、国会議員の三分の二の賛成がなければ発議そのものができないことの矛盾をつくものである。つまり結果的に国民の意思よりも国会議員の意思が優先してしまうことへの矛盾である。

 これに関連し最近の朝日新聞は、最近の東京版の「声」欄に載った読者のこんな投書に「なるほどと思った」と同意し、このように評していた。「・・・一度だけ魔法が使えるとしたら何をしたいか。小学生同士で話していたら、ある子が言った。『魔法使いにさせてくださいと言って魔法使いになる』。それがかなえば魔法は使い放題、なんでもできる。・・・これは憲法96条改正と同じでは・・・。改憲の発議の要件をまず緩めるという主張の危うさを鋭く突いている。試合に勝てないからゲームのルールを自分に有利なように変えるようなもの」(朝日、2013.6.4、卓上四季)。

 憲法改正に賛成する多くの党も、96条単独の改正案には概ね否定的である。つまり、自民党に改正発議の主導権、つまり拳銃を持たせてしまったら何をされるか分らないと言う危機感がある。ただ真意として反対なのか、それとも政策の駆け引きとして反対なのかはどうにも分らない。目の前に来ている参議院選挙対策として野党が反自民に一本化できないのも、これまた政治の世界の面白いところでもあろうか。

 それはともかく、現在での憲法改正の議論はこの96条改正一本にしぼられている。自衛隊を軍隊という名称に変更しようとする意見も、海外派兵ができるような国際協力を織り込む意見なども封印して、ともかく改正手続きだけの憲法改正案が議論の中心になっている。

 自民党の意見も分らないではない。第二次世界大戦の敗戦で、アメリカは「鬼畜米英」、「欲しがりません勝つまでは」と言った、精神論に裏打ちされた日本国民のナショナリズムを押さえ込むために、余りにも理想論、観念論に裏打ちされた現行憲法を押し付けた。そしてこの憲法は、戦後60数年を経てただの一回も改正されないままになっており、当然変化する時代に合わない面も出てきている。しかも、憲法草案を作り上げ、押し付けたアメリカ自体が制定直後から、日本と安全保障条約を結ぶに当たって戦争放棄を定めた9条が邪魔になったくらいである。

 こうした憲法改正そのものについては、仮に近々国会審議にかかったとしても自民党が掲げる全文改訂案が一括上程されることはなく、ある程度傾向の似たよった部分呈示に止まるだろうから、私のエッセイの場ではその都度検討することとしたい。私がここで言いたいのは、とりあえず96条の改正手続きについてである。この96条改正案の背景には、マスコミの論調も、自民党の思惑も、野党の意見も、更には識者や学者の意見なども、決して触れないある種の共通した思惑が隠されているように思えてならない。

 それは96条後段の「国民投票による過半数の承認」についてのそれぞれの思惑の中に潜んでいるように思えてならない。具体的には「国民をバカにしている」ことを、誰もが言わないけれど互いに前提にし合っているように思えることである。そしてそれを決して表には出すことはない。

 この「国民をバカにしている」ことは、96条改正の賛成派も反対派も同じである。賛成派は「国民はバカだから、ちょっと世論操作をすれば簡単にコントロールできる」、すなわち過半数を得ることができると踏んでいる。だからそれを根拠に憲法は簡単に変えられると読んでいるように思えることである。また反対派も同じ意味で国民は簡単にコントロールされてしまうから、国民投票による過半数という規定があったとしても投票結果を全国民の意思と認定するのは危険だと恐れるのである。

 私たちは民主主義の原点を、事前に議論を尽くすという前提を置きながらも、多数決つまり過半数の意思の存在を基準にしてきた。過半数こそが、国にしろ身近なグループにしろ、ある種の集合体の意見とすることに疑いを持つことはなかった。だから賛成派は過半数をもって憲法改正案は承認されたとする結果が得られるであろうことを確信し、反対派はゆれ動く国民の意思を危惧して国民投票が仮に過半数であったとしても危険だと叫ぶ。

 そんなに「国民はバカ」なのだろうか。国民投票の意味を、例えば投票者の年齢制限、投票率、無効票の意味などに関して、今後様々に議論されることだろう。でも私は思う。少なくとも現状では「日本国民はバカ」なのだと思う。賛成派も反対派も口にしないだけで内心思っているように、日本人は真実バカなのだと思われても仕方がないと思っている。政治家からもメデイァからも、そして憲法学者や識者と呼ばれる多くの頭脳集団からも思われているように、日本人はどうしょうもないバカなのだと思う。つまり日本人は「国民」というスタンスでは、誰からも信用されていないのである。賛成派にしろ、反対派にしろ、私たちは自律した考えを持たない単なる烏合の衆と思われているのである。

 そのことは、例えば日本人に染み付いてしまっている依存体質にも見ることができる。「誰かがなんとかしてくれる」、「自分で汗水たらさくても、きっとなんとかなる」、そんなことを日本中が思っているからである。政府、自治体、学校、先生、警察、病院などなど、日本人は自らが考えることを放棄し、他者や権威に問題点や疑問点を丸投げすることで「なんとかなる」と思っている。

 日本人は、憲法改正論議に関わる賛成派も反対派も含めた様々な人たちから、こんなにもバカにされていると思うのである。こんなにもあからさまにバカにされていながら、国民はそのことに気付こうともしない。私はそうした「バカにしている人たち」に向かって、「国民をバカにするな」と抗議したいのではない。私自身、選挙を通しての日本国民は「本当にバカだ」と思っているからである。バカにされても仕方がないくらいのバカだと思っているからである。

 憲法は日本の将来を考えていく上での基本である。国民の全員が憲法学者になるべきだと言うのではない。ただ、他者に流されることなく自分で憲法を考えることを、人は自ら真剣に学ばねばならないのではないかと思うのである。たとえ改憲に賛成であろうと、反対であろうとも、まず自分で真面目に考えることが、今の日本人に求められているように思えてならない。

 他人に向かって「バカ」という奴のほうが本当は「バカ」なのだという話は子供の頃から聞いている。そのことは百も承知だし、浪花節ではないけれど「バカは死ななきゃ治らない」もまた実感はしているのだが・・・。


                                     2013.6.12     佐々木利夫


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憲法改正と魔法の杖