見るともなしに見ていたNHKのEテレでの番組である。どうやらある条件下での人間の行動パターンを予測することで社会の経済活動を論じようとする、そんな番組だったような気がする。パソコンを開いてのながら見だったので必ずしも全体をきちんと理解していたわけではない。ただその番組の一つのエピソードに次のようなものがあって、それがどこか気になったのである。

 ある男性の相談という形のクイズ形式で番組は進行する。近くの空き地で毎日のように子供が遊んでいてその騒ぎ声がうるさくて仕方がない。その子供たちが遊ぶのをなんとか止めさせる方法はないか、これがテーマであった。そして解決方法として次の三つの案が提示された。

 @ 親にいいつけ、うるさいから遊ばせるなと警告する。
 A 子供たちに毎日お菓子を配る(画面に表示された絵は袋菓子だった)。
 B 子供たちに毎日お金を渡す(画面には100円玉の絵が書かれていた)。

 問題を出されたアシスタント役の芸能人は、しばし迷ったのち、@番を答えとして選んだ。親に言いつけて子供を静かにさせるか、もしくはその空き地で遊ばないように指導してもらうという作戦である。私は残念ながら空き地が男性の所有地なのか、それとも単なる近くの空き地なのかを聞き漏らしてしまった。だから「騒ぐな」「遊ぶな」という命令なり要請に法的な根拠があるのかどうかにも、知ることはできなかった。でもそんなことは回答に関係ないことがすぐに分った。

 @の回答ははずれだった。私は番組が次へと進みその正答を聞く前に、@をはずれとした理由を聞いたとたんに変だと思ったのである。それは、回答が誤りであることを伝えるブーという音とともに「両親はモンスターペアレンツで、子供が好きに遊んで何が悪いと開き直られた」との解説を示し、だから解決にはならないと言ったからである。

 これは変である。確かに親が最近流行りのモンスターペアレンツである可能性がないとは言えない。でも、この番組は一般論で回答を求めているのである。世間の親の半分以上がモンスターであるというデータが常識的に存在しているなら、それはそれで分らないではない。いいやそれでも変である。過半数の親がモンスターであるなら、モンスターであることを理由に×にするという理屈が成り立たなくなると思うからである。つまり、モンスターが過半数を占めているのなら、それは既にモンスターと評価すべきではなく、そうした親の存在は社会の前提になってしまうと思うからである。だなら、それを親がモンスターだからという理屈を使って答えを出させること自体おかしいことになる。

 私も親に言いつけることで、この男性の問題が解決するとは思わない。だからと言って、「親がモンスター」であることをもって回答を誤りとしてしまうのは、どうしたってこじつけである。テレビ番組として公共に放送しているのだから、もっと別に例えば「子供は親の指示を聞かないものだ」とか、「男性が親に指示するような権限はない」など、誰にでも理解できる理由を探すべきではなかっただろうか。

 次にアシスタントはAを選んだ。さすがにBの金で買収するような行為には、どこか後ろめたさを感じたのかも知れない。だがこれも×であった。理由は「お菓子を貰おうとする子供の数が増えてしまい収拾がつかなくなる」とするものだった。これには私も賛成できた。「空き地へ行くとお菓子がもらえる」との風評が広まれば、いずれ際限がなくなると思ったからである。と同時に、これを×とするならば問題提起そのものが変ではないかと思ったのである。お菓子もお金も同じような効果を持っているのではないかと思ったからである。

 正解は私の意に反してBだった。その理由こそが恐らく人間の行動心理と経済活動を結びつけるというこの番組の目的だったのかも知れない。

 Bが正答であるとする理由はこうである。「子供たちにある期間、毎日お金を渡して遊ぶのを止めさせる。そしてそれが習慣化したと思われる頃を見計らって突然渡すのを止める。子供たちの当初の目的は、空き地で遊ぶことにあった。それが繰り返しお金を渡すことで、空き地へ来る目的が遊ぶことからお金を貰うことに変わってしまう。そこで突然お金を渡すことを止めてしまうと、子供たちは空き地へ行く目的を失ってしまうことになる。だから、お金を貰えなくなったその日以降、目的を失った子供は空き地へ来なくなる」。

 いかにも学者の考えそうな、とりあえず筋の通っているかのように見える理屈ではある。でもどう考えても変である。第一に引っかかったのは、BとAは同じではないかということであった。お菓子と100円玉とを同時に呈示して子供に選ばせるのなら、菓子の価格にもよるだろうけれど現金を選ぶかも知れない。だが、「菓子と現金を同時に呈示する」という条件そのものが示されていないのだから、この選択肢はあり得ないことになる。

 もちろん遊ぶことを選ぶか、それとも菓子を選ぶか、更には現金を選ぶかは難しい問題ではある。仮に袋に入った沢山の菓子の中から1個だけを渡すだけでは子供にバカにされるだろうし、また現金を渡すといっても一円玉では見向きもされないだろう。ここでの三つの質問は、「少なくとも子供が空き地で遊ぶのを止める」という効果を持つ可能性がある選択肢」として掲げられているのだから、子供にバカにされるという結果はないものとして考えよう。

 そうすれば、お菓子を渡す効果とお金を渡すことの効果の違いは考えにくいことになる。「お菓子を貰った子供たちが毎日増えてきて収拾がつかなくなる」という、回答を×にした理由はそのまま現金にも当てはまることになるのではないだろうか。つまり、Bだって「お金が貰える」と言うので子供たちが毎日増え続け収拾がつかなくなることだって考えられるし、その回答も×になってしまうからである。

 また、仮にBを正答とした理由(現金を渡すことが習慣化した頃を見計らって渡すのを中止すると、目的を失った子供たちは空き地へ来なくなる)を是認するなら、それはそのままお菓子にも適用されるのではないだろうかと言うことである。つまりお菓子も現金も正答か×かは別にしても結果として同じ効果を持つのではないかということであり、回答の選択肢としてはふさわしくないことになると思うのである。

 この番組の制作者の思惑が分らないではない。恐らく子供が空き地で遊ぶという「楽しさの追求」という目的がお金を渡すということによって「お金を貰う」という目的に変化することを言いたかったのだろう。そしてそれは単に「子供の空き地での遊び」というテーマを超えて、人間が抱く目的意識というものは他者の介入によって容易に変化するものであり、その変化した目的が不成就したような場合、人は当初の目的そのものも見失ってしまう、という壮大な心理過程を説明したかったのだと思う。
 だから「子供に金を渡して遊びの時間を買う」というテーマの設定に、道義的な評価を加えることはこの際遠慮することにしよう。

 そうした心理ドラマの設定はそれなりの面白さはある。でもそれはあくまで仮定のドラマでしかない。現金をもらえなくなった子供たちが、空き地で遊ぶという目的の変化によって遊ばなくなるのか、それとも再び野球やサッカーに興じるようになるのかは、少なくともこの問題提起の条件の中には含まれていない。場合によっては目的を失った子供たち以外の子供たちが、その空き地でボール遊びに興じるようになることだって考えられるだろう。

 だから私はこの番組の意図が、最初から「目的を変化させることにより人の行動パターンを変えることが出来る」ことを示したかったのではないかと思ったのである。そしてそのために誰にも分りやすいような例示を、それも挿し絵まで使って作り上げたのではないかと思ったのである。だとするならこれは視聴者に対するとんでもない誘導であり、同時にアカデミックなイメージを持たせ番組の権威を高めようとする意図的な作為だと思ったのである。そして世の親すべてをモンスターに仕立て上げた選択肢作りも含めて、こうした作為は視聴者に対する冒涜ではないかと感じたのであった。


                                     2013.6.27     佐々木利夫


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