歳をとってくることと円熟円満ゆったりなどという生活スタイルとはまるで無縁だと、少なくとも我が身を振り返る限りそう思っている。だからこそこうしてテレビ報道や新聞記事などに触れ、時に違和感を持ってエッセイネタにできるのだろう。これから書こうとすることも年寄りのつたない暇つぶしである。

  「このままでは日本社会における人材は『安かろう、悪かろう』になってしまう。将来に向けて、それでよいのか。改めて考える必要がある。」(2013.7.8 朝日新聞 私の視点 労働の質 人への投資で高める必要 東京大学教授)、こんな記事を最近読んだ。

 論者はこの端的な例として「復興を目的とする昨年来の公務員給与の7.8%削減」をあげ、そして「公務員給与を下げることは、質の低い仕事でよいと認めることになる」(同記事)と言う。

 論者は公務員の給与を下げてしまうと、人材としての公務員の質そのものが低下すると言っているのである。もちろん公務員といえども普通の人間である。特別に公務員にふさわしい人材になるように育てられたわけでも、人格高潔で正義の味方ばかりで選別されているわけでもない。仕事帰りに一杯飲みたくなったり、住宅ローンに追いかけられる人だっていることだろう。だから給料が下がっても何ら動じないような人は恐らくいないだろうと思う。

 論者の意見は二つに分けて考えることができる。その一つは、給料を下げることによって、現職にある公務員の仕事に対する意欲が低下して、結果的に密度の薄い仕事しかしなくなるという意味である。またもう一つの考えは、給与を下げることで公務員を志望する優秀な人材が集まらなくなり、その結果公務員の質が低下してしまうとするものである。論者の意見がこのいずれを指しているのか、もしくは両方の意味なのか、その辺はこの記事からは必ずしも明らかではない。

 第一の点について考えてみよう。もちろん給与が低下することによって転職を考える人がいるだろうことを否定するつもりはない。でも給与の額によって勤労意欲が増減するなどとは、常識的に考えにくい。給与が一割増えたから一割分仕事熱心になるとか、一割減ったから一割分だけ仕事に対する一生懸命さを減らすなどが考えられるだろうか。こうした考えが許されるとするなら、公務員は給与を上げ続ける限りいくらでも優秀になっていくことになる。定期昇給はそのためのステップなのだろうか。減給はどんな場合も公務員の勤労意欲の低下を招くのだろうか。

 給与が増えることは、恐らく誰にとっても嬉しいことだろう。そして逆に減ることは不満に違いはあるまい。だが7.8%の給与の減少によって、公務員の質が下がるという意見にはどうも納得がいかない。しかも論者の言い分によると、この低下は公務員が自らに対して「質の低い仕事でよい」と納得させることを意味している。10の仕事があるときに、彼は「給与が減ったんだから9や8の仕事でいいや」と自分自身に命ずることを前提にしているのである。超過勤務予算がないから残業や休日出勤をしないなどということとは違う。論者は質の低下を言っているのだから、日常の勤務について自分の能力をフルに発揮しないことを示唆していることになる。

 こんなことが現実に起きるのだろうか。私も公務員を経験しているけれど、人事院勧告などによる給与の上がり下がりは何度も経験している。そうしたときに、その分だけ能率を上げ下げして働こうなどと考えたことはない。それは公務員に限らずサラリーマン共通の考えではないだろうか。いい条件を示されて転職を考えるならそれはそれで分らないではない。でも転職を阻止するために給与を上げ続ける必要があるのだとするなら、私はそんな人材は公務員としてもサラリーマンとして欲しくはないし、そのための給与の引き上げが正しいことだとは思えない。

 さて第二の点について考えよう。給与の低下によって公務員人気が低くなり、採用に当たっての志望者の減少し優秀な人材がより高給な職種へと流れてしまうとの指摘である。就職に当たって公務員を選ぶか民間を選ぶかの判断に、果たしてどこまで給与が影響するだろうか。
 もちろん公務員の給与が極端に低くて、採用されてたとしても生活ができないというのなら別である。公務員の待遇が極端に悪くて、権力を利用した収賄なしに生活できないという諸外国の話しを聞いたことがないではない。でも論者の意見は日本の現在の公務員の話である。どこまできちんと民間給与との格差が検討されているか分らないけれど、少なくとも民間給与の平均値を参考にして人事院が勧告した水準になっているはずである。

 たしかに今回の給与の減少は、東日本大震災による復興支援が背景にある。そうした支援に伴う減少と言う措置に納得のいかない公務員もいることだろう。特に「無理強いされるような支援」というスタイルに反発する者がいたところで不思議はない。だがそうしたことに対して、公務員志望を断念する者がでるだろうか。もちろん、応募者の減少は公務員の質の低下に関係する場合があるかも知れない。極端な話し、募集人員を下回る応募者しかなく、結果的に応募者全員を無試験同様に採用してしまうのなら、結果的に質の低下は避けられという事態の発生は避けられないだろう。だがそれが現実に起きるというのだろうか。

 就職に当たって応募希望者は様々な要件を考えるだろう。中には給与の多寡だけを考える人がいたとしても、それはそれでやむを得ないと思う。でもそれと同じように公務員に将来性や、安定性や、仕事に対する意気込みや、自分の将来を託せる職種などなど、様々な思いを託す者もいるだろうと思う。
 そして給与はそこそこ高くても、転勤がある、階級性が合わない、職種や勤務時間の拘束が嫌い、またこの頃の公務員バッシングの高まりが嫌いだなどなど、給与以外の要素で募集に応じない者もいることだろう。中には民間でこそ自分の能力が発揮できると考えたり、芸術や研究などに自らの道を探す者もいることだろう。

 だから私は、論者の言うような「給与の減少は公務員の質の低下を招く」とするような論調には、どうしてもついていけないのである。彼の言い分は、「給与の増減によって、人は喜んだり悲しんだりする」という現象を、そのまま「給与を貰っている人の質の上昇や低下に結びつく」という理屈にすりかえてしまっているように思えるからである。

 私の思いは、例えば公務員として採用された国や自治体、更には就職した企業に対して、終身雇用時代の幻想を抱いているからなのかも知れない。現代の雇用はもっと流動的で転職がフリーに行なわれるのだと言われるかも知れない。でも少なくとも私の経験からして、ほどほど(なにがほどほどかを厳密に定義することは難しいけれど)の給与であれば、人はその増減によって、仕事の質を上げたり下げたりできるほど、器用にはできていないと思っているからである。仕事に向き合う姿勢は、達成感、他者からの評価、満足度、安定感、更にはそれは安定した将来があるなどの要素から来ているのかも知れないけれど、家族や友人などの仕事外の充足度などなど、必ずしも給与のみに影響されるものではないと思っているからである。

 それは少し大げさになるかも知れないが、仕事の質を決めるのは、仕事に対する生きがいではないだうか。それは決して給与の多寡によるものではなく、仕事から受け取る満足や充足という報酬(決して金銭による評価ではない)だと思っているし、私自身そう思って仕事をしてきたからである。


                                     2013.7.19     佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



安かろう悪かろう