数日前のテレビニュースである。内閣府が「現在の満足度」に関して世論調査を行った結果を発表したらしい。それによると、「満足」と回答した者が10.3%、「まあ満足」と回答したものが60.7%で、母集団や対象者の選定基準などは聞き漏らしたけれど、日本人の71%が満足との意思表示をしたそうである(2003.8.10、NHKBS1、18時50からのニュース)。この満足度は前年の実施結果よりも上昇したのだそうで、もちろん内閣府のコメントは「日本人の現在の生活に対する満足度は上昇している」、であった。

 そこでへそ曲がり爺さんの登場である。世論調査で国民に満足度を聞いて、それが前年より上昇したというのだから、国民の満足度は上がっていると評価することは数字の読みとして間違ってはいないだろう。でも、「満足」という表現の持つ意味は、果たしてどこまで私たち国民が通常に意識している「満足」に近いのだろうか。

 もちろん私がこの世論調査の対象になったことはないし、ニュース番組でも「満足の意味」についてどんな聞き方なり質問をしたのかも解説していなかったから、私にも知るよしがない。ただ、言えることは、内閣府が国民の生活に対する満足度は上がっていると発表しているのだから、少なくとも私たちが一般的に考えている「現在の生活に満足している」状態とそれほど違うものではないだろう。

 だからこそ私は、日本人の7割もの人間が現在の生活に「まぁ」をつけるしろ満足しているとの回答に何か異質なものを感じたのである。年金も介護も医療も教育も雇用も、多くの国民をめぐる社会の対応があちこちでほころびを見せており、国の財政赤字が1000兆円、赤ん坊も含めた国民一人当たり7百数十万円もの借金を背負い、消費増税や消費者物価の上昇、生活保護費の削減、年金の削減や支給開始年齢の引き上げ、雇用の不安定などの話題が世情を賑わしているときに、7割もの国民が「満足している」と考えているとはどうしても思えないからである。

 私はこの世論調査に嘘があると言いたいのではない。数字が偏るように操作された結果だと言いたいのでもない。恐らく統計的にきちんとした方法で得られた数値であろうことは、検証不足であるけれど認めていいと思う。ただ、それにもかかわらす、私はこの7割という数値をうさんくさく感じてしまうのである。

 こうした私の言い方はどこか矛盾している。「満足しているか」と聞いて「満足している」とした回答結果を、統計的には信じているといいながら、内容的にうさんくさいというのは変である。
 その矛盾はきっと「満足」という意味に対する私の評価が、回答者群が抱いているだろう「満足」に対する意識とは違っているように感じているからだろう。

 それで私は「満足」に対する彼我の違いを少し書いてみようと思ったのである。こうした思いはかつて、日本人の7割も8割もが「私は中流家庭」と評価した世論調査を見たときにも感じたことなのだが、そうした評価が将来の自分像との対比によって行われているだけで、絶対的な評価ではないのではないかとの疑問である。

 もちろん「満足」か否かは、個人個人の独立した思いであり、同時にそれは自分の中での相対的な評価でもある。そのことを否定したいとは思わない。「世界一の金持ち」に比べて「別荘とキャデラックを持っている程度では私はまだ不幸だ」と思う人もいるだろうし、「とりあえず毎日の食事ができている」ことをもって「幸せだ」と感じる人だっているだろう。だから「あなたは100万円持っているか」と言うような、数値的に判断できる質問ではない場合、どうしても答えは相対的な評価にならざるを得ないだろう。

 それでも一つ確実に言えることは、相対的であることは比較する対象が存在するという事実である。世の中に「私ひとり」しかいないのだとしたら、私が幸福であるとか、満足であるとする意思そのものが無意味になってしまうからである。

 その場合の基本は「他者との比較」である。もちろんその他者が「○○さんという特定の誰か」である場合もないとは言えないだろうけれど、普通はもっと抽象的な「お金持ち」だとか「結婚して子供もいる家庭」だとか、「自分より不幸だと思える人の存在」などのケースではないだろうか。「そんな人、そんな家庭、そんな集団、そんな世界」と比べてみて「私は満足、不満足、幸せ、不幸せ」などを感じるのではないだろうか。

 そうした意味で「満足」を捉えるならば、内閣府の行ったこの世論調査の結果に対する評価は、それなり理解できるものがある。
 でも、比較にはもう一つ、とても大切なものがあるのではないだろうか。それは自分との比較である。この場合の「自分」とは時間軸における自分、つまり「過去の自分」もしくは「未来の自分」のことである。

 「貧しかった過去の私」が「ともかくも生活に困ることはなくなった現在に満足している」とする評価も、他者との比較ではないけれど、一つの尺度を示しているといえよう。この場合も内閣府の評価は適合するかも知れない。

 でも残る一つ、「将来の自分」を思い浮かべて現在の自分に対して行う「満足」の評価は、その他の「満足の評価」とはまるで違うと思うのである。例えば「過去の安定していた生活」が「給与も減り物価も上がってきた現在の生活」になってきたとしよう。その場合、「現在の生活に満足しているか」と問われたとするなら、恐らく人は「満足していない」と答えるような気がする。かつての生活が満足であって、現在はその水準に及ばないのだから、満足度は低いと考えるのが当然だろう。

 だとすれば、内閣府の評価もそれなり適合しているではないか、と思わないでもない。でも、そこで私は思うのである。もし満足の回答の評価に、「将来の不安」、「将来の確実な不景気」みたいなファクターを加えるなら、「満足度の意味」はまるで違ってくるように思えてならないのである。つまり、たとえ現在の生活が少し前よりも不満であったとしても、これからの先行きの見通しが全く立たず、むしろ現在よりも悪くなるかもしれない状況にあるなら、現在の不満は「将来のもっと悪い状況になることに比べるなら今のほうがまだましかもしれない」と思うのではないだろうか。

 「一年前より満足度は低下しているが、来年の不安と比べるならこれでもまだ現状は満足だ」と人が思ったとしたら、そのときに人は世論調査に「満足」、「不満足」とどちらにチェックをつけるだろうか。「バブルの時から比べるならとても満足とは言えないが、戦争直後の食糧難の時代から比べるなら現状を不満足といったら贅沢だ」と思ったとしたら、人はどちらを選択するだろうか。

 更に今の若者は、パラサイトだの植物系だのと言わている。しかし就職も年金も福祉も含めて将来がまったく不透明な時代の中で、仲間と居酒屋やカラオケを楽しみ携帯のネットに生きがいを見出していることに「満足」しているのだとしたら、その「満足」を世論調査の結果として内閣府が「日本人の満足度」として評価することにどんな意味があるのだろうか。

 私には内閣府の言う「満足度71%」の評価が、少なくとも私のイメージする「満足」とはまるで異質なもののように感じられてならない。30%、40%ならそんな感じはしなかったのだろう。でも71%という数値は、極端にいうなら日本人の全部が「現在に満足している」ことを意味している。その数値そのものを否定したいのではない。内閣府が考え、その結果を利用しようとしている「日本人が意識している満足」と、本当の意味の満足とがどこかでとんでもなく乖離しているのではないか、どこかで齟齬をきたしているのではないか、そんな風に私には思えたのである。

 あなたは、この71%をどう感じましたか。私には「現在にまあ満足しています」という回答が、「明日食う米がなくなるかも知れない。でも今日の米は足りている。だから今は満足です」、そんな先行き不安を背負った回答にしか思えないのです。「望んでも叶わないかも知れない満足」を対象に不満を訴えるより、現状でいることが満足だと、そんな満足もあるのだと私は思い、そしてその満足は、決して「満足している満足」とはまるで異質なものなのではないか、そんな風に考えてしまうのである。


                                     2013.8.13    佐々木利夫


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