眠りが浅くて、毎日睡眠薬を常用していると話す友人がいる。夜になって眠ることなんぞ、当たり前のことだと感じている私にとってみれば、「眠れない」ことが続くなどは信じられないことだ。夜11時近くになって蒲団に入り、枕もとの灯りをつけて本を読む。面白くない本なら10数分、多少興味の湧く本でも30分足らずで本の内容が頭に入らなくなったり、同じ箇所を堂々巡りしている自分に気づく。本にしおりを挟んで灯りを消す、それが日課になっているから、そのまま朝を迎えることになる。

 眠るのは夜だけではない。定年から10数年、一人の事務所でこうしてエッセイを書いたりテレビを見たりしていると、うたた寝も大切な来客の一人である。毎日ではないけれど突然「眠気が近づいてきたな」と感じることがある。そうした時に行う決まった儀式がある。眠たいのなら眠ればいいと思うかも知れないが、「眠い」というのと「眠気が近づいてきた」と言うのとではまるで違うのである。

 事務所では終日、回転椅子に腰かけて過ごしているが、その儀式とは、@ テレビのリモコンをワイシャツの胸ポケットに差し込む、A 机に足を乗せ背もたれに身を委ねる、B テレビのボリュームを少し下げる、 C ズボンのベルトを少しゆるめゆったりとする・・・、以上で完了である。

 そうして見るでもなく、聞くでもなく、テレビに顔を向ける。確かにテレビを見てはいるのだが、それほど意識を集中しているわけでもない。近づいてきた眠気がそのまま遠ざかってしまい、この儀式が無効になることもないではないけれど、多くの場合リモコンでテレビを消すかそのまま眼を閉じる。1〜2分しか経っていない感じだが、気がつくと時計は30分〜1時間ほど過ぎていることを知らせている。

 こんな横着とも気ままとも言える毎日をくり返しているので、「眠ること」にそれほどこだわる必要もないのだが、最近読んだ小説にこんな数節があり、普段気のつかなかった「眠る」と言うか「眠れる」ことの意味について少し考えさせられてしまった。主人公は不倫をしている若い女である。この言葉は「添い寝」をアルバイトとしている主人公の女友達の独白である。少し長くなるが私の知らない世界だったこともあり引用してみたい。

 「・・・『私はね、ひと晩中、眠るわけにはいかないの。だって、もし夜中にとなりの人が目を覚ました時、私がぐうぐう眠っていたら、私の仕事にはあんまり価値がないっていうか、プロじゃないのよ、わかる? 決して淋しくさせてはいけないの。私のところへやって来る人は、もちろん人づての人ばかりだけれど、みんな身分はきちんとした人ばかりよ。ものすごくデリケートな形で傷ついて、疲れ果てている人ばかりなの。自分が疲れちゃっていることすらわからないくらいにね。それで、必ずと言っていいほど、夜中に目を覚ますのよ。そういう時に、淡い明かりの中で私がにっこり微笑んであげることが大切なの。・・・そうするとたいてい安心して、またぐっする眠るものなのね、人は。人はみんな、誰かにただとなりに眠ってほしいものなんだなあって思うの。・・・そうそう、そういう疲れた人のとなりに眠っているとね、その寝息に息を合わせてゆくとね、その人の心の暗闇を吸いとってしまうのかもしれない。・・・』」(吉本ばなな、「白河夜船」、福武文庫P27)。

 「添い寝」という商売が実在するのかどうか、私には分らない。分らないけれど、この本を読んでなんだかそんな場所が世の中にあってもいいなと、とても実感したのである。
 眠ることを死と並列化する考えがある。眠ったまま目覚めなかったとしたら、それは恐らく死と同義であろう。傍目から見るなら目覚めない現象には単なる熟睡や昏睡と分る場合もあるだろうが、少なくともそう言う状態は本人にとってみるなら「意識のない時間」であることに違いはない。そうした時間が「死」でないことは、目覚めてからしか分らないだろうからである。

 でもこの小説の中で描かれているような「眠り」を、人はどこかで求めているのかも知れないと思ったのである。不眠症や睡眠不足の人たちだけではなく、毎日の眠りに満足している人たちにとっても、こんな眠りにどこか憧れているのではないだろうかと思ったのである。それは男としての「隣に女が添い寝している」という下ネタがかった願望ではなく、もっと眠りの質にかかわるものとして、男女の別さへない憧れなのではないだろうかと思ったのである。

 この主人公の眠りは長い。男と会うとき以外はいつも眠っているような毎日である。だがどんなに眠りの時間が長くても、その眠りに満足することはない。目覚めもまた眠りと境界をつけがたいほどにも重くて暗い。主人公は、添い寝をアルバイトとしている女友達の思いにどこか共感している。

 私も自分の眠りには満足している。毎日の目覚めが、「今日はこんないいことがあるぞ」とか「きっとなにかいいことがありそうだ」などと言った状況に満たされているわけではない。それでも、「仕事に行きたくない」、「このままずっと眠っていたい」、「あぁ、疲れがとれない」、「起きるのがつらい・・・」などと言ったネガティブな朝を迎えることは、少なくとも私には皆無である。寝ぼけまなこで半分眠ったままのろのろ起きだして、時計に急かされて顔を洗ったり歯を磨いたりするようなこともない。

 それにもかかわらず、この小説の中の眠りのような、安心というのか、安全というのか、それともぬくぬくとした幸せとでも名づけたいような、この身の全部を委ねてしまえるような眠りを、観念的かも知れないけれど私は私の中に持っていないような気がしている。赤ん坊が、その命をも含めて完全に他者にその身を預けているような、そんな眠りを私はどこかへ忘れてきたような気がしている。

 それは私だけの特殊な気持ちではないような気がしている。どんなに熟睡した朝を迎えたとしても、人は「まるごと安心して委ねられるような眠り」をどこかへ置いてきたような目覚め、どこかで忘れ物を捜し損ねたような目覚めを自身の中に残したままになっているような気がしてならないのである。
 私は私の眠りに不満はない。また目覚めに不満を持ったこともない。でもこの本を読んで、私たちはどこかに「大切な眠り」をほんの少しかも知れないけれど忘れてしまっているような、そんな気がしたのである。


                                     2013.8.23     佐々木利夫


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