テレビの料理番組については、少し前に書いたばかりである(別稿「
料理番組あれこれ」参照)。そんなに気になるなら、とりあえず男の料理学校にでも通って一通りとはいかずとも、少なくとも基礎くらいは覚えてから文句の一言も言えばいいのにと思われるかも知れないが、へそ曲がりの癖はどうにも抜けきれないようだ。
ただ、これまでの単身赴任の経験や、現在でも昼飯の自炊や友人との事務所での飲み会の酒の肴の支度など、多少なりとも料理のまねごとくらいしていると自認しているこの身にとってみれば、簡単・手抜きなどの手法も含めて新しいメニューが気になることはマンネリ打破の上からも重要である。
さて今回ここに書こうとしたきっかけになったのは、テレビで見た比較的希少と思われる材料に対する料理人の意識についてである。これだけ料理番組が各放送局間で競合しているのだから、新しいメニューの開発もまた熾烈なものがあるのだろうことは想像に難くない。どのチャンネルを回しても肉じゃがやさばの味噌煮の作り方ばっかりというのでは、料理番組として視聴者を獲得するなど難しいだろうからである。
恐らく新しいメニューの開発は、出演する料理人に課された使命だろうから、スタッフがどこまで関わっているかは分らないけれど相当な苦労があることだろう。そうした苦労の結果として、時には珍しい食材を使ったり、日本には馴染みの少ない外国の料理を和風にアレンジしたみたいなものが出てくるのはむしろ当たり前のことかも知れない。
スタッフも料理人も、カメラに向かってにこやかに材料や調味料などを紹介する。○○何グラム、××何グラム・・・、△△一かけ、□□少々・・・などなどである。もちろんそれは重要な情報である。番組を見ているのは主婦が多いだろうから、そうした材料をメモして今晩のお惣菜に役立てたり、スーパーの買い物メモに追加することだって考えられるだろうからである。また、そうした料理に必要な食材を人数分用意しなければ料理そのものが成立しないであろうから、材料のボリュームも大切なデータである。
だが、時々見ていてそうした材料や調味料などの中には「世界の珍味」と言われるほど特殊ではないにしても、普段あまり使われていないようなものが登場することがある。私のスーパーでの買い物体験などそれほどのものではないから、そうした材料の手に入りやすさなどの知識は、必ずしも正確ではない。だから単に私の知識不足であって、主婦には馴染みの食材であることもあるだろう。ただ、細切れ肉や切り落としなど比較的安価な食材を使うことの多い私だから、牛肉のロースだの七面鳥の肉だの香辛料なんたらかんたらだのと言われても、毎日の昼食、仲間から集める予算の範囲内でのやりくりなどの事情からすると、手の届かない場合も多い。
また、名前すらよく分からないのだが、セージだのなんたらの葉だのと聞いたことのない香辛料や香味野菜などの名を挙げられても、常備していないことはもちろん、それがスーパーで手に入るのかどうかさえ心許ないものも多い。ましてや、そんな材料を使うような料理などはなから私の作る料理対象からは却下されることは当然でもある。テレビを見ながらレシピをメモしようとしている私の手は、このあまり耳慣れない材料のところではたと止まってしまう。つまり、私のレパートリーとしての料理メモからはその時点で却下ということになるのである。
そんな却下されるような料理(つまりは、私の手に負えないような料理を意味している)だから、なおさら私自身の反感を買ってしまうのかも知れないが、そうした材料を紹介している料理人の最後に付け加える一言が、私の腹立たしさをかきたてることになる。
その一言とはこんな言葉である。「もし、○○や××がない場合は、入れなくてもけっこうです」とか、それが肉や魚などの主要な材料である場合には「豚肉やさばなどで代用されてもけっこうです」。
私はこの一言がどうしても気になるのである。高価だったり、手に入りにくい材料や香辛料であるために、私のメモに残らないのならそれはそれで構わない。伊勢えびや神戸牛を使った料理がどんなにおいしかろうと、東南アジアや中国の調味料を入れることでどんなにその料理の味が引き立つだろうと、それは私の経済事情や仲間から集める会費の額、余った調味料などの出番が今後どこまであるかなどを勘案して決めることであり、単なる私の選択と決断による結果にしか過ぎないからである。
だが、「入れなくてもかまいません」とか「他の材料で代用してもかまいません」とはいったいどういうことなのだろうか。入れなくてもいいのなら、どうして最初から「入れる材料」として紹介したのだろうか。もちろん、料理人の気持ちがまるで想像できないというのではない。手に入りにくいとは言えこうした材料を使うことで、より一層おいしい料理ができますと言いたいのだろう。
でも私には料理人の「入れなくてもかまいません」との発言の裏側には、「どうせ素人のお前たちには、こんな特別な材料や調味料を使った料理の微妙な味わいなど分るまい」との馬鹿にしたような思いが隠されているように思えてならないのである。そのことが、どこか私の気持ちを逆なでしてしまうのである。
それは料理人の思う通りだからである。多くの人たちは、料理人が感じる微妙な味が分るような舌を持ってはいないだろう。そうした舌を持っているからこそ、料理人は料理人としてテレビ出演できるほどの地位を獲得したのだろうからである。
ただ私はそうした舌を持たないことが不幸せだとは思わない。庶民の舌は絶妙で微妙な味に感動することは少ないかも知れないけれど、恐らくそうした舌は不味さにも鈍感だろうからである。ほどほどに美味いと感じ、仮にそれほど美味くなくても特に気になることもないままに味わうことができることは、それは一つの生きていく知恵でもあるだろうからである。
だからと言って、それを「お前はバカだ」と言われて、「その通り、バカですよ」と開き直り承認してしまうこととは違うと思うのである。だから私は、自分が味音痴であることを承知してはいても、陰に陽にそれを指摘されることにどこか反発を感じてしまうのである。「入れなくてもいいですよ」は、まさに私を、そしてその番組を見ている多くの視聴者に対して、「お前たちには材料の違いによる微妙な味の違いなど分るまい」と宣言しているのと同じだと思うからである。
こうした特殊な材料を披露し、そして「入れなくてもかまわない」と発言する料理人は、そのことによって自らの舌の確かさを自慢したいのである。そしてそれは、単に自分の舌の自慢だけではなく、相対的に視聴者たる相手の地位を下げることによって自己満足を得たいのである。そこには結果として「お前たちは味音痴だ」の見下した思いだけが残ることになる。
2013.3.14 佐々木利夫
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