食は栄養だし食べることは生きることと同義だから、その大切さが分らないではない。もちろんそうした大切さの背景には、そのことがどこまで基本かをきちんと理解しているわけではないけれど、三十種類の食品をバランスよく採ることだとか、ビタミンやミネラルが必要だなども常識的には理解しているつもりである。それは偏食はよくないとか、ポテトチップスを長いすで食べながらテレビを見ている生活や、拒食症過食症の話につながることも、どこまで正確な理解かどうかはともかくとして、私なりに納得しながら生活をしているつもりである。

 でも一方において「食は楽しみ」でもある。「おいしいこと」が、場合によっては栄養の偏りを招いたり、時に健康を害することもあるだろうことを否定するわけではない。だが「バランスのいい食事」を常に続けていくことだけが食のあるべき姿ではないような気がする。つい先日も「酒も女もタバコもやらず百まで生きたバカがいる」について書いたばかりだけれど(別稿「100まで生きるバカ」参照)、それと同じような意味で「粗食に耐えて百まで生きてどうする」もまた、人生の生き様と真っ向から対決する命題を抱えているように思う。

 私の料理経験は、現在の事務所通いでの昼飯の支度と時に居酒屋に変身する仲間との飲み会の酒の肴の支度くらいである。最近は料理をする亭主が増えてきていて、週に一度くらいは家庭での料理を任されるケースも多いと聞いている。

 それはそれで否定するつもりはないけれど、男の料理教室みたいな番組やカルチャーセンターなどを見ていると、いわゆる私たちが日常的に理解している「料理」と「男の料理」というのとでは丸っきり違うのではないかと思えてくる。「「男に料理を作らせても、高級な材料をふんだんに使うだけで後始末もしなければ、そもそも余った材料のことなど最初から念頭にない」ことがそれを如実に表しているかもしれない。
 基本的に男の料理には、メニュー、つまり、レストランで見かける「シェフの作る名前のついた料理」を作ることに意味があり、いわゆる「日常の惣菜としての料理」という基本的な哲学が欠けているからである。

 だからと言ってそのことと「女の料理」を対比しようとは思わない。男がシェフで女がおさんどんと割り切ることもまた間違いだと思うからである。

 ところでこの頃はテレビでの料理番組がやたらと多いような気がする。著名とされる料理人やカリスマ主婦、料理研究家と称する肩書きなどが登場し、時に素人が名料理人の指導を受けながら失敗しつつ作る料理がテーマになるなど、料理を作っているのかゲームをしているのか分らない番組なども多い。ともあれ食材や調味材料のメーカーやレストランやホテルの紹介なども含めて、やたらと料理番組が氾濫しているように思える。

 かつては単純に料理の作り方を紹介する番組である場合が多かったような気がしているが、最近はこれに報道キャスターとゲスト数人のグループによるワイドショーやバラエティ番組などの一場面として登場することも多くなってきている。ただそうした場合でも、多くの場合料理人一人に司会兼用のスタッフ一人の組み合わせが多い。スタッフの役目は番組の進行であり、時に的外れな言動によって料理人を引き立てることも必要である。
 ところで主役の役割である。番組の目的がその日に決められた料理の完成にあり、決められた時間内に完成させなければならないのだから、材料を一晩寝かせることや皮をむくこと、長時間煮込んだり電子レンジやオーブンで10分間チンするなどの作業があらかじめ完成品として用意しておいたり、調理の過程が省略されることくらいに異を唱えるつもりはない。

 ただ、その料理人が番組の中で放ついかにも「私が料理の専門家です」みたいな口癖がどうにも気になるのである。専門家なのだから料理に関する薀蓄を傾けることは当たり前なのかも知れない。でもこう言ってしまっては料理の専門家に申し訳ないし、決して料理を馬鹿にしているつもりもないのだが、作るのはたかが料理である。材料を加工して味付けをして焼くとか煮るとかを経て盛り付けをするだけのことである。

 そのことを一番知っているのが番組の主役である料理人本人であろう。世界一を決めるコンテストの料理作っているわけでも、料理大学での講習会でも、専門家への指導の場でもない。テレビを見ているのは、普通の家庭の主婦であり、番組の中で味わうのは数人のゲストである。素材は恐らくどこのスーパーでも売っている肉や魚や野菜である。そうでなければ料理番組としての意味などなくなってしまうからである。

 だからこそついつい料理人の口からは、専門家としての「秘訣の一言」が飛び出ることになるのだろうか。もちろんその一言が、家庭の主婦の料理の味を一変させるような秘伝の極意なのならば、まさに傾聴に値する。

 だがそんな秘訣なんぞあるはずもない。確かに仕込みや調理の時間や温度、または調味料の配合などによって味に変化が生じることを否定したいのではない。隠し味にワインを使ったり香味野菜などを加え、手順を少し変えることで主婦が普段作っている料理よりも一味違う味わいを与えることはできるだろう。だがそれとても、限度がある。主婦が作るであろう毎日の料理に毎度毎度ワインや高級食材をふんだんに使うことなど、無理な話だからである。

 そこで出てくるのが、「一言アドバイス」である。その一言が番組を見てその料理を作ろうと思っている人にどれだけ役に立つのかが、私にはどうにも気になってい仕方がない。そんなに気になるのだったら最初からテレビなんぞ見なければいいのだが、どのチャンネルもスポーツや外国語講座やコマーシャルが連発していて、しかももうすぐニュース番組が始まるなどの場合にはどうしても「もうすぐ始まるニュース番組」の直前に放映されている料理番組にチャンネルを合わせてしまうことになる。

 私が気になっている料理人の一言とは、色々あるけれど、つまるところは「余計なお世話」といいたいようなことが繰り返されることである。そうした中で一番気になるのは「栄養と健康に関する発言」である。脂身の多い肉の料理に、焼くことで脂が抜けてヘルシーだとか脂がのって栄養満点などのまるで正反対の表現が、思いつきのように出てくる。またカロリーの低い豆腐やこんにゃくなどの料理にはこれまたヘルシーと称賛し、逆にカロリーの高い料理には栄養たっぷりとこれもまた賞賛するのである。牛乳を一口加えてカルシュウムがどうのこうの、ほうれんそうを添えてなんたらかんたら、油揚げの脂抜きをしてまた一言、大根の皮を捨てずに利用する方法に一言、簡単調理で手抜きができるとこれまた自画自賛などなど、際限もなくアドバイスとも知識のひけらかしともつかない自慢話が延々と続くのである。

 そしてこの料理に立ち会っているスタッフは、料理人の放つどんな矛盾する意見にも決して反論することなく「その通り」、「おいしい」、「なるほど」などなど、賞賛と共感と感動の言葉を連発するのである。

 つい先日みた番組である。生きているイカを調理しながら「新鮮」の連発である。どこかで漁師のおばあさんの話で、「死んだ魚は食わん」との声を聞いたことがある。これはつまり亭主が毎日魚を獲ってくるので市場などで魚を買うことはないとの意味だと分かるからいいけれど、料理人が生きている魚に向かって新鮮だと言い放つのはどうしたって変である。これを認めるなら私たちは、いつも「新鮮でない」魚や肉や野菜を食べていることになってしまうからである。
 もう一つ。細いニラのようなネギを2〜3本薬味に使うのだが、そのためにはさっと茹でる必要があるのだそうである。そこで料理人の一言、そのネギを水から茹でるのは勿体ないので、他の料理の材料を煮るときに軽く一緒に茹でましょうとのたもうたものだ。勿体ないという意味が分らないではないが、そんなことまで料理人に教えてもらう必要などないのではないかと感じてしまう。

 「余計な一言」と書いた。余計ではあっても無駄ではないのだし、伝える一言に誤りなどないのだから、そんなことに目くじら立てることなどないではないか、と思わないではない。ましてや、私がその番組を見てその料理を今晩作ろうなどと考えているわけでない。更にいうなら、これからも作る機会などまるでないかも知れない。そんな料理番組の中味を気にしたところで、それこそ余計なお世話なのかも知れない。
 だとするなら、私が料理番組の一言に気になっている背景には、「おいしい」しか言わない参加者の料理に対する評価の日本語表現に、どこかいらいらしている感情があるからなのかも知れない。


                                     2013.1.29     佐々木利夫


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