「この国を導く『解』 競う夏に」、7月4日の朝日新聞が一面に掲げた「座標軸」と銘打った選挙に関する特集記事の見出しである。7月4日は参議院選挙の告示日であり、21日(日)の投票日に向けた選挙戦の開始日である。私はこの見出しに「それって、本当 ? 」と、どこか違和感を感じてしまったのである。それは現在の政治の方向が、完全に政党政治に固まっており、そうした政治の仕組みと見出しの「この国を導く」こととは必ずしも連動していないように思えたからである。

 それは選挙と言うのが立候補者個人を選ぶのが基本であるにもかかわらず、政策決定や立法手段が政党を基本とした議員の多数決で決められることを考慮すると、結果的に政党を選ぶのと同じことになっているからである。しかもこれに比例区という政党を投票するシステムを加えるなら、まさに選挙は政党色一色になってしまう。このことは「衆参ネジレ国会」だの「決められない国会」などと批判される背景にうんざりしている衆議院で多数を占める与党が、参議院でも過半数を獲得することが選挙の目的だと公然と発言していることからも分る。

 もちろん野党は、このネジレこそが国民の選択であり正しい政治のあり方だと主張し、これまた党利党略そのままの選挙戦になっている。

 さて、かほどに現在の政治は政党を中心に動いており、極端な場合は「党が決定した意見」を党員全員が国会で支持するよう党が指定する、「党議拘束」という手段がとられることさえある。国会議員といえども議員個人として国民の意思を代表して委員会なり国会の議決に参加するのが当然であり、仮に政党がある種の共通した政策の集団であるとしても、構成員全員がすべての意見について党意見と同一である必要はない。しかも国会議員は国民を代表して議決に参加するのだから、必ずしも党意見に完全に一致させる必要はないことになる。

 ところが「党議拘束」という言葉からも分るように、議員個人が党の意思に反した立場をとるのは現実的には非常に難しいだろう。しかも内閣という組織が与党という政党を構成する議員で組み立てられていること、しかも立法案のほとんどが行政を担当する内閣やその執行機関たる省庁から提出されること、政党がいくつかの派閥から作られていることなどを加味すると、議員個人が党や派閥などと異なった意見を持つことは更に難しくなる。

 つまり、その良し悪しはともかくとして、日本の政治は「政党の意思」で決定されてしまうのである。そしてそれはそのまま日本の進む方向になるのであり、そのことがまさに「この国を導く」ことになるのである。このように考えてくると、この国を導くのは現実的には政党でしかないことが分ると思う。

 そこで選挙である。選挙が結果的に政党を選ぶことになってしまい、その政党が国を導くのだとするなら、冒頭に掲げた朝日新聞の見出しの意味は、国民が選んだ結果が国を導くことになる事実を示している。こんなことは選挙と言うシステムからして当たり前のことなのだから、今更ここでくどくど説明しなくたって常識かもしれない。

 だからこそそれを十分理解した上で国民は慎重に考慮して、貴重な一票を投ぜよと言いたいのだろう。そのことは分る。むしろ、分り過ぎるほど分る。でも選挙は議員を一人しか選べないということと、国政の決定は政党によってなされるということの乖離が、私たちの投票行動をとても難しくしている。

 投票を立候補者の顔やスタイルで決める人がいるかも知れないけれど、多くは立候補者の主張する「国政に関与する意思」を基本にするだろう。国を導くための投票なのだから、それは当然のことである。
 だが立候補者の主張は非常に多岐である。投票する側は一票しか持っていないにもかかわらず、立候補者の掲げる主張は多岐であり多数である。政党はマニフェストという政策目標を掲げているから、そうした政党に属する立候補者の主張はほぼ共通している。しかし党の看板を掲げた立候補者の意見が、そのマニフェストの「丸ごとコピーか」と言うと、必ずしもそうではない。地域や国際関係や立候補者の目先の利害などによって微妙に違っていたりする。

 ここでは立候補者が玉虫色の主張をして選挙民をごまかしているとか、当選を狙う余りに嘘をついている、公約も時に無視されることがあるなどというような極論までは考えないことにする。それでも多様な主張があるときに、その主張が私の託す国の未来と完全に一致するときと、一部しか一致しない場合とがあるが、そのどちらでも有権者は悩むことがある。
 例えばある政党の意見が私の意見と一致したとしよう。私はこの政党に属する立候補者に投票したならば、それで私の思う日本を選択したことになるのだろうか。もちろん立候補者は、「私に投票すれば日本が変わる」と主張する。でも仮に彼の所属する政党は全国で数人しか立候補者をたてていないとしたなら、この政党がどんなに素晴らしい主張をしたところで、そうした主張が国会で実現するとは思えない。

 ならば、多数を占める政党に所属する立候補者に投じることにしよう。そうすれば私の意見が実現する可能性はかなり高くなる。でも私の持つ権利は一票である。完全一致するならそれでいいけれど、たとえば20もある主張のうち、15はいいけれど5つは反対だとするときはどうしたらいいだろうか。

 もっと具体的に言うなら、今度の参議院選挙の争点が消費増税、原発、憲法改正の可否の三つだけだったとする。さて私が増税やむなし、原発も当面維持、憲法も改正の要ありと思っていたとする。この三者とも賛成する意見を持つ政党に属する立候補者を選ぶことはやぶさかではない。でもそうではなかったとき、高校の数学を振り返るまでなく三者の賛否の組み合わせには7つも8つもが考えられる。しかもyesかnoの選択だけでなく、条件の違いや不確実性などを加味するならその組み合わせは更に増えていくことになる。

 しかも争点はこの三つだけではない。ちょっと思いつくだけで、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)、経済活性、沖縄普天間基地、貧困、医療、福祉、子育てなどなど、複雑多岐である。そしてどれもこれも日本の将来に重要な影響を持つものであり、まさに「国を導く」ための要になる要素ばかりである。そしてそうした主張の組み合わせたるや、立候補している政党の数を超えて膨大なものとなることだろう。

 しかも前にも述べたように、自分の意見と一致する候補者がいたとしても、その属する政党が国民の支持を得て仮に全員当選したとしても僅か数人にしかならないのだとしたら、投票者の思いが「国を導く」ことに届くはとても難しい。もちろん、完全一致でなくてもいいではないかとの意見があってもいい。8割一致、半分一致でも、まるで効果のない一票よりはいいと思わないでもない。それでも、その残った気に入らない部分の中に仮に「原発賛成」があったとしたら、私は原発賛成に一票を投じたことになってしまうのではないだろうか。

 私は、だから「投票結果は当てにならない」ことを言いたいのではない。ただどんなに考えて投票したところで、私の投じた一票の思いは過半数とか多数政党の意思とかいった思惑の中に埋没してしまうことを言いたかったのである。A党のA候補者は私の思いと一点を除き完全に一致しており、しかも多数党である。他方B候補者は私の思いと一点だけ一致するけれど他はまるで違うとする。しかもBの所属する政党は全員当選したところで国会での勢力は数人にしかならない。その異なる一点が仮に消費税だったとして、私はどちらへ投票すればいいのだろうか。「国を託す」ということは、結局妥協なのだろうか。妥協することを「託すことなんだ」と理解してもいいのだろうか。

 こう考えてくると、そこそこ妥協して投票することにどんな意味があるのだろうかとも思う。棄権するという選択肢は、絶対に許されないのだろうか。だから私は、そんな選挙の事実を知りながら公器と自称する新聞に、「投票が国を導く」などとお気楽な意見を吐いて欲しくなかったのである。

 選挙とはこれしきのものでしかないことを、実は有権者は知っているのではないだろうか。投票率を高めることが有権者の国政参加への義務であるかのような論調が多い。それはつまり、投票率の低いことが政治を悪くしている元凶であるかのように喧伝し、その責任を有権者のみに押し付けているように思えてならない。不在者投票の要件を緩和したり、老人ホームへ送迎バスを出したり、外国に駐留する有権者に投票の場を設けることもいいけれど、投票率を上げることだけで国民の国政参加意思が高まったとするのは誤りではないだろうか。もしかしたらそれは、政府が画策した欺瞞かも知れないではないか。

 マスコミは、無関心を責めるのではなく、国民が政治に関心を持つような報道にこそ徹すべきである。政治を信じないことは、むしろ逆に政治に対する国民の報復になっているのではないのだろうか。投票所に行くことだけで事足れりとするような論調を抽象的に有権者に向かってくり返す記事を見るにつけ、そのことが逆に有権者をバカにしているように私には思えてしまったのである。


                                     2013.7.11    佐々木利夫


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