新聞の一面記事というのは、それだけ社会的に注目度が高いニュースであることを意味しているのだろう。もちろん記事の内容や掲載された日々によりそれぞれ軽重はあるだろうけれど、2013.8.22の朝日新聞の一面は次の三つの記事で占められており、どれも考えさせられるものばかりだった。
@ 心の病 受診2割増
健康保険組合が調査したサラリーマンの心の病の受診者数が、2009年度から2011年度の3年間で2割増えたのだそうである。「仕事のストレスが原因となる病気が大半を占める」と報告されている。心の病についてはこれまでも何度か書いてきたが、自分が直接かかわっていないことについては、どうしても無責任な批判になりがちなのは気をつけなければならないだろう。
だからこうしたことにまるで知識のない私があれこれ言うのは、単なる野次馬的な批判になりがちだろうことは承知である。ただ、それはそうだけれど、今の世の中がどこか生きにくくなっていることが背景にあるように思えてならない。
物質的にこんなにも恵まれているかのように見える現代社会が、それとは裏腹に人の心の闇を広げている。心の病とはまるで無関係ではあるけれど、消費者庁は27日、アレルギー食品に「ゴマ」と「カシューナッツ」が追加され、これで表示対象食品は27品目になったと言う。昔は良かったなどとは言うまい。ただどこか「当たり前で普通に住んでいける人間社会」が少しずつ壊れていってるような、そんな気がしてならない。
A 毒ガス1350人死亡 シリア反体制派発表 政府は否定
毒ガスが実際に使われたのかどうかまだ確定されていないようだが、シリアにおける反体制派と政府の対立は内戦状態にまでエスカレートし混迷を続けている。毒ガス兵器がいいか悪いかなんてことは、聞く方がおかしいことくらい考える以前のことではある。だがアメリカもイギリスも、この「毒ガス」と言われている生物化学兵器には特別な緊張感を抱いている。兵器にはそれぞれ個性があって、悪さの程度も違うと言うのが一般的な理解なのかも知れない。
つまり、今のところ原子爆弾を筆頭に、毒ガスを中心にした生物化学兵器、一発の爆弾の中に多数の爆弾が含まれているクラスター爆弾、最近流行しだした無人爆撃機などが批判の対象とされているようである。つまるところは、無差別攻撃で戦闘に無関係な市民まで巻き添えにすることが、武器の悪性度の基本に置かれているようである。人が人を殺戮する道具に、悪質さの程度という基準を持ってくること自体、どこかおかしいような気がするけれど、戦争は兵隊同士で殺しあうべきで民間人を巻き込むことは許されないとの思いが、どこかで国際的にも共通の認識になっているのかも知れない。
そのことはとりあえず置いておくこととして、この毒ガス兵器がシリアの内戦で使われ、そして1350人が死亡したとの報道がなされた。問題は「誰が使用したのか」である。殺されたのは反体制派側に属する一般市民であると言われているが、反体制派による被害の発表とそれらしき映像があるだけで真偽のほどは分かっていない。反体制派はシリア政府が投下したと言い、政府側は反体制派による自作自演だと言い募る。
国連が両当事者の承認を得て事実解明のための調査にはいることになったようである。内戦の混乱の中でどこまで調査ができるのか、心許ない。現に調査団そのものが、「犯人探し」ではなく、毒ガス使用が事実かどうかの確認のためと言っているのだから、解決には程遠い。互いが自分は無実と主張し、「自国民や仲間を殺すはずがない」との主張を譲らない。報道を見ていると、双方とも「敵を倒すためならなんでもする」姿勢であり、そのためには「敵に見せかけた攻撃」だって含まれるかも知れない。双方ともメディアの前で毒ガス兵器を使用することはないかも知れないが、政府が反体制派に似せて傭兵に作戦を委ねることも可能だろうし、反体制派が政府の仕業に見せつつ、極端な場合自分の身内を攻撃することだってないとは言えないだろう。
どちらが投下したのかは国連調査団の仕事ではないと言っているのだから、そこで答えが出ることはないだろう。恐らく「・・・と思われる」、「・・・と考えられる」などの積み重ねで答えを出すかも知れないが、「証拠による事実認定」にはほど遠いのではないだろうか。そうした中で一つだけ予想できる可能性はある。遺体は残っているし、被害者の中には生き残っている者もいるのだから、「毒ガス兵器が使われたかどうか」、「その毒の成分は何か」くらいは分るような気がする。そしていつものことながら、戦争当事者でない市民や老人や女、子どもがその中に多く含まれることだろうも・・・。
B タンク汚染水 海流出か 福島第一 底から漏れた可能性
ストロンチュウム10兆ベクレル 地下水の海流出、東電試算
福島の原発事故は一応収束宣言がなされているけれど、壊れた原発炉そのものは依然として放射能を出し続けている。原子炉を冷却し続けるために循環スタイルをとってはいるものの、毎日大量の海水が使用されている。その海水によって核燃料は冷却され、循環によって放射能が濃縮され、廃棄される冷却水はタンクに保存される。一方、原発周辺からの地下水は破壊された原子炉の周辺に流れ込み、同じように汚染水となり、それもタンクに保管される。
このタンクに保管された汚染水が、300トンも漏れ出ていることが分った。それは当然に海へと流れ出ていく。漏れ出た放射性ストロンチュウムは10兆ベクレル、セシウムは20兆ベクレルになるとの試算を、東電は21日に発表したそうである(同記事)。この数値について私は論評するだけの力はない。また、放射能の総量と個人として受ける放射能の許容値とは別個のもので、並列化して評価していけないことも、少しは分る。だが、マイクロシーベルトだのミリシーベルトという単位で食品や住宅や環境の放射能測定値などがニュースを賑わすときに、この東電の発表した数値には声もない。
原発事故についてはこれまでも何度も書いたから、ここではくり返さない。ただ基本にあるのは、放射能が「煮ても焼いても始末できない」ことにある。数千年、数万年を単位とする気の遠くなるような半減期を基準にするしか、我々には放射能に対処する方法がないのである。科学的には数千年、数万年であるかも知れないが、私にはその年数は無限と同じように聞こえる。
原発事故から二年半が過ぎた。もちろん東日本大震災による地震や津波による被害と、この原発事故とを明確に区分することはできないことは分る。だが、この汚染水漏れを聞いたときに、私は「原発事故の対処は一企業による処理の限界を超えた」と思ったのである。そして同時に「一国による処理能力をも超えている」と感じたのである。
企業も国も色々と手を尽くすことだろうことは、当然である。だからと言って「亡くした命を返せ」みたいな不可能な要求を望んでいるわけではない。でも、「いつも通りの平穏な生活に戻りたい」との当たり前の望みさえ、まだ見通しさえつかない状況にある。
車でも、ダムでも、橋や地下鉄でも、どんなことにだって事故は起き、その事故で人は死ぬだろう。私たちが飛行機の利便性と事故による乗客の死のバランスを量りにかけた上で利用し、生活している現実が分らないではない。でも今回の原発事故はこうしたバランスを根こそぎ破壊してしまったような気がする。交通事故と車社会の利便のバランスのような発想は、もはや原発には適用できないと私は思ったのである。
「事故は絶対に起きない」との宣託が、単なる神話にしか過ぎないことは既に事実として証明された。そして今進んでいる現実は、「起きた事故は、どうやっても取り返しがつかない」ことを示している。つまり、原発で享受できる利益と起きた事故の後始末とは、天秤にかけることなどできないことをこの汚染水漏れは改めて私たちに突きつけたのである。それは、天秤の片方に「人の未来」を載せたとき、もう一方の天秤皿には載せるべき重りは存在しないことの証明でもあったのである。
2013.8.28
佐々木利夫
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