新聞は毎日宅配してもらっているが、インターネットでニュースを見るのも今では日常になっている。新聞は一紙、しかも朝刊だけしかとっていないこともあって、必ずしも客観的な事実が伝わっているかどうかいささかの疑問もあるからである。テレビでも一日中、各局がニュースを流しているから情報が抜けてしまうような心配はないし、仮に芸能ネタやゴシップ記事などが私の耳に届かなかったとしても、それはそれで何の不自由も感じないだろうからその心配もない。

 そんな毎日の中に、ふとこんなニュースがネットから飛び込んできた。「親族間暴力が5年前の2倍になっている」との報道であった(2012.12.13、時事通信、警察庁まとめ)。このネット記事以外に新聞やテレビで同じような報道がされた記憶もないので、その日は3日後に衆院選を控えたあわただしい時期だったからそれほどニュース性の高い情報だとは評価されなかったのかも知れない。

 ただこの記事の前提に、「親子なんだから」、「家族なんだから」みたいな論調があって、それはそれで分らないではないのだが、逆にこの親族間暴力の当事者に親族関係がなかったならこうした事件は起きなかったのではないかとの思いも同時にしたのである。そして、こうした事件が倍増しているとの背景には、親族間の当事者に対する社会の評価というか圧力の変化が影響しているのではないかと感じたのである。

 例えば息子が同居の父なり母を殴る例がある。でも相手が例えば通勤途上の電車で居合わせたまるで無関係な老人であったとするなら、恐らくその加害者が老人を殴ることなどなかったと思うのである。また仮にその老人がどんなに憎たらしい思わず殴りたくなるような性格だったとしても、それがテレビに映された遠い地域の映像だったとしたなら無関心のままに通り過ぎてしまったのではないかと思うのである。
 つまり対象が「私と関係がない」存在であったなら、冷たいようだが人は多くの場合無関心のまま暴力になることなど決してなかったのではないだろうか。

 どんな理不尽があっても、せいぜい歳末募金箱に100円投じて忘れてしまえるなら、そこに暴力など起きることはないだろう。むしろ、親子だから、兄弟親戚だからこそ、こうした暴力が起きるのではないだろうか。

 もちろん、例えばホームレスに対して殴ったり石をぶつけたりするなどの行為に快感を覚えるような若者が存在していることを否定はしない。また核家族化が進んで、親子や兄弟などの関係が希薄になってきている現状も分らないではない。ただ、私はそうした「希薄さ」が、逆に親族のしがらみを当事者間に強く求めるような社会を育ててきているような気がしてならない。「・・・しなければならない」という「しがらみ」が、社会や近隣や、そして政治や福祉などを巻き込んだ有形無形の圧力になって、当事者を強制するような時代になってきているのではないか、そしてそういう社会を私たちは無意識のうちに作り上げてきたのではないかと思えるからである。

 もちろん介護保険であるとか老人ホームなど様々な福祉の充実が叫ばれ、不十分ながらも少しずつ充実していっていることを否定はしない。そしてそこに働く人々にも介護される側へのいたわりが求められ、かつそうした心で接するであろう人々の存在もまた否定するつもりはない。
 でも私はそのことと、社会が介護を受けるであろう人たちに対するいわゆる「優しさ」を、我がものとして理解していくこととはまるで違っているように思えてならない。

 この違いに対する私の理解は、あくまでも私の独断である。統計でも、事実の検証による実例でもない。でもどこかで介護する側に親族関係がない場合は、その人たちの心に「まずは親族が介護を受ける人の世話をするのが当然ではないか」との思いが抜けがたく残っているのではないかと思えるのである。例えば医師、例えば介護士、例えばケースワーカー、例えば自治体の窓口職員などなど、介護を受けたいと望む人たちの周りには様々な人たちがいる。それは例えば申請なり届出がないことによって「介護を望む人の存在を知らない」場合も含めてである。私はそうした人たちがいつの場合も、「知らないことを正当化しようとしていること」、そしてその原因に「報告や申請や届出がなかったこと」などを掲げていることにどこか虚しさを覚えてしまう。

 そしてその人たちがそう思ってしまう背景には「一義的には介護が必要とされる人の親族が面倒を見たり介護すべきである」と考えていることがあるように思える。「親族がいる」、その事実だけで彼らは「知らなかったこと」、「やらなかったこと」が免責されると思ってしまうのではないだろうか。

 私にはそうした「免責の思い」が、社会全体にまで広がっているような気がしてならない。そして介護の充実みたいな現象が広がっていくにしたがって、ますますそうした「免責の思い」が人々の間に強まっていき、逆に一層親族に対する要求の強さにつながっていっているのではないだろうか。

 「親子なんだから」、「夫婦なんだから」、「・・・だから世話をするのが当たり前」との意識が、社会の中に強まっていき、そうした意識の高まりは結局親族に対する「しなければならない」との自己強制の圧力として働いてしまうのではないかと思えてならない。「世話をするのは親族なら当たり前」が、社会からも公認され、それは同時に自己の中にも他者からの強制として増殖していく。そしてそうした公認の意識は、福祉の充実が叫ばれるたびに善意の第三者や正義の市民、国民の理想などの高みなどからの正論意識とつながって、ますます親族を孤立させ、追い詰めていっているのではないだろうか。

 私はこの「親族間の暴力が2倍になった」との記事を知って、それは親族による加害の形はとっているけれど、そうした暴力に向かわせた元凶には国や社会などが掲げている「優しい福祉」の背景に潜んでいる親族への過多な依存、そして国民大衆が福祉に抱いている「自分以外の誰かがやるべきだ」との依存的な無責任さにあるのではないかと思っているのである。
 だから私は、こうした事件の被害者は単に「暴力を振るわれた弱者」だけではなく、加害者とされている親族もまた同じように含めてもいいのではないかと思っている。

 そしてそれが「5年間で2倍になった」ということは、福祉に求める国民の意識の無責任さと親族による介護や世話を当然とする風潮との格差が「2倍」になったことを示しているのではないかと考えてしまう。確かに家族内で互いを見守る風潮は昔から存在していた。ただそれは部落中の、そして街中のあらゆる家族が互いに共有している慣習とも言える事実であった。

 「老いては子に従え」や場合によっては「姥捨て」のようなしきたりにしたところで、3世代、4世代の家族が同居していく中での共有する体験であり、慣習であったはずである。もちろん、農業や漁業などから工場生産へと変化した現代社会に原因があることを否定するつもりはないけれど、そうした共有体験を私たちは喪失させることで社会に適応してきた。そして一方で中途半端な福祉の充実が台頭してくる。そうした中で社会は(というよりは個々人は)自らが関わらない抽象的な福祉意識に対して無責任に家族への依存体質を加重するばかりである。

 そうした社会や地域における共同体意識の喪失は、そこから分離した第三者(ボランティア、自治体、国など)の存在と投下される税金などの組み合わせによって、「己とかかわりのないシステムへの依存体質」を一層強めることになっていった。そしてそれは人々を無関心へと誘い、しかも親族や家族などで「なんとかせい」という意識を強めることになっていった。
 それはどこかで犯人を作り上げることで溜飲を下げようとしている現代人の、なんとも言えない恐怖の体質を表している一場面なのかも知れない。


                                     2013.1.5     佐々木利夫


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親族間の暴力