交通事故死は一時期の毎年1万6千人という時代よりは少し減ったけれど、あい変わらず毎年4千数百人が続いている。事故の形態は様々だろうし、中には故意による殺人や未必の故意みたいなものだって存在するだろう。それでも一般的に言って、死亡事故か単なる人身か物損事故かの区別までは知らないけれど、交差点における出会いがしらの事故が多いと言われている。

 こうした事故を減らそうと運転者への教育や注意喚起はともかくとして、車そのものに事故防止のシステムを組み込もうとする動きが考えられている。その一つに交差点で歩行者や車を感知して、運転者に警告を発するシステムが開発されているそうである(2013.10.11 NHKラジオ 18時台のニュース)。それによると交差点における自車の死角にある歩行者や車をマシンが探知して、接触などの事故が起きないよう運転者に事前に予告するという優れものである。

 交通事故は、その気になれば理論的には皆無にすることが可能な事故だから、たとえそれが交差点という限定された範囲内であったとしても、こうした技術が開発されるのは大賛成である。

 ところでこのシステムは、スマートフォン(携帯電話風の一種のパソコン・スマホ)に組み込んで利用するのだそうである。そうしたシステムを聞いているうちに、どこか変な予感がしてきた。ラジオ番組のアナウンサーは、こうしたシステムがいかに有効かに重点を置いて熱心に報道していた。聞きながら私は、このシステムが基本的には「人と車、車と車の衝突を予防することで人身を守る」ことにあるにもかかわらず、そこに「人」の姿が見えないことがどうしても気になってしまった。

 この放送を聞いて最初に思ったのは、運転している車にセンサーを搭載してそのセンサーから発信する電波なり光線で相手の車なり交差点を渡ろうとしている人を感知するのだと思った。でもこの装置の目的が「運転者の死角にある車や人の感知」にあるのだとするなら、運転者の不注意による確認ミスの感知はともかく、「死角の感知」は難しいのではないだろうかと思えたことであった。

 なぜなら、運転者はもっとも死角の少ない位置で運転しているのではないかと思ったからである。運転者の死角ということは、運転者の目からは見えない車なり人を感知するということである。脇き見や不注意は死角の問題とは別なので、この際置いておく。そうしたとき、運転席からは死角になるけれども、助手席や後部座席、もしくはヘッドライトやテールランプの位置からなら死角にならないというケースは、皆無とは言えないまでもほとんど考えられないように思えたからである。

 ラジオを聞き進めて、私の思いが的外れでないことを知った。助手席やヘッドライトの位置にセンサーを備え、その信号をスマホで受信するようなシステムではないことが分ったからである。このシステムは相手、つまり歩行者や相手車をセンサーで直接感知して警告するものではないことが分ったのである。

 そのシステムは、歩行者や他車が持っているスマホが発する信号を受信して、運転している車との距離などをGPSで計算して衝突の危険性などの有無を判断するのである。つまり、歩行者や車そのものを直接感知するシステムではないことが分ったのである。

 GPSの性能は、アメリカの軍事衛星を便宜的に利用していた時代から、それぞれの国が自前で専用の人工衛星を打ち上げるようになってから、目に見えて精度が高くなってきた。目的地に着けないとの苦情が頻発した一昔前から比べるなら、数センチ単位まで正確に測定し計算ができるといわれている。だとするなら、このシステムの利用は衝突防止に有効ではないかと思うかも知れない。

 私は歩行者や周りを移動している車を感知するのなら、それはそれで理解できないではない。感知機能がどこまで精度が高いのか、マシンの感知ミスは起きないのかなどの信頼性はともかく、間違いなく感知できるのであれば有効性を認めるのにやぶさかではない。

 でもこのシステムは相手のスマホが発している電波を利用しているのである。だからスマホを搭載していない車やスマホを持っていない歩行者は、発信する電波がないと言う意味で感知できないのである。対象がスマホというマシンに限定されていることについては、特に気にはならなかった。スマホに代えて別の種類の発信機を持つことで足りるからである。

 ここで特に歩行者対車に焦点をしぼって話しを進めることにしよう。車対車に関してならば、車に発信機を搭載することを義務化しそれを監視するシステムを作り上げることで、犯罪者が意図的に発信機を外すような場合をどうするかなどの問題はともかく、監視システムの強化の中で対処できるかも知れないからである。

 問題は人対人である。歩行者がスマホを持つことを義務化することは可能である。人が街中を裸で歩くことが軽犯罪法に違反することは社会的に認知されていることだし、スマホの代わりになるような簡易な発信機だってそのうち開発され、持つことを義務化することだって可能だろうからである。

 でも私が思うのは、「発信機を持っていない人は感知できない」というシステムそのものが、どこか私たち人間を否定しているように思えてならないことであった。こうしたシステム上、発信機を忘れたり、面倒くさいからとかチョットの外出なのでとか持つことに拒否反応を示すような人などは、「存在しているのに存在していない」ことになり、そのことが私にはどうしても許せないように思えたのである。

 たとえ認知症で徘徊していようとも、または病気や怪我などで助けを求めるために戸外をうろつこうとも、そこにその人は存在しているのである。人の目は、その人の存在を確認できるのである。にもかかわらず、このシステムによれば「目の前に人は存在していない」のである。いるのにいないのである。

 そして私にはこのシステムがそれ以上に、運転手が自分の目を使わなくなるような気運に拍車をかけるような気がしてならない。判断や注意をマシンに任せて注意力が今以上に散漫になってしまい、「マシンが判断しなかった」ことが言い訳の理由になったり、更には「発信機を持っていなかった歩行者が悪い」との主張を促進させるような気がしてならない。

 もちろんマシンの誤動作などは論外である。きっと完璧なマシンとシステムが構築されることだろう。それでも私は「いるのにいない」というこのマシンの発想が、どうにも理解できないでいるのである。

 もしかしたらこのシステムに利用できる発信機を、誕生と同時に体内に埋め込むことも考えられる。そうすれば発信機を忘れたり取り外したりすることはできないことになるだろう。恐らくその埋め込んだ発信機には、住民基本台帳番号やマイナンバーや社会保険番号などを記録することも可能であろう。そうした信号を頼りに、徘徊の位置や孤独死や人知れず山奥に埋められた殺人などに活用できるのかも知れない。でも、そうした「人に対する管理」は、もっと別の恐ろしい結果を招くような気がしてならない。少なくとも私は、そうした「信号が人である」みたいな発想に基づくシステムが横行する社会は、とても住みにくいように思えてならない。


                                     2013.10.24    佐々木利夫


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