教師から体罰を受けた京都の高校生が自殺して、スポーツクラブなど体育系を巡る体罰の横行が明らかになりつつある。そのことの是非は問うまい。体罰が是か非かなんて話ではないと思うからである。私には体罰を巡ってもう一つ気になっていることがある。それは「体罰」という言葉そのものについてである。

 私にはこの体罰という言葉の中に、その言葉を使う方にも、そして体罰を受けている、過去に受けたなどの受けている方にも、どこか「正当な暴力」みたいな意識が紛れこんでいるように思えてならない。正面切って、正しいとか必要などと威張って主張できるほどの意識だとは思わないけれど、どこかで「やむを得ない暴力」、「必要な暴力」、「指導として許容される範囲の暴力」みたいな意識が潜んでいるような思えてならない。それを「暴力」とまでは思っていなくて、「一種の躾、訓練、指導」と理解することで更に自らの意識を正当化させているように思える。

 そうした背景には、この言葉の中にある「罰」という言葉の持つあまりにも強い免責力というか暴力に対する許容のイメージがあるのではないだろうか。
 古来私たちは「罰」という言葉の中にに、例えば天罰、例えば神罰といった、超自然的な力による支配、制裁のイメージを拭いがたく抱いてきた。罰は「罪またはあやまちがあるものに対する懲めのしおき」(広辞苑)と理解されていて、その力の背景はまさに天であり神という批判することの許されない権威であった。それは時に自然災害による被害を意味することもあったけれど、それはまさに人智を超えた神託であり天による報復であった。

 それはやがて法律や規則といった人類の共同生活における規範に対する違背への制裁として広まっていった。人はそれを刑罰、罰金、罰則など呼んで許容し、功罪の分別を人が作り上げた組織の手に委ねることとした。そうしたとき、私たちは加害側に常に「力ある者」、「権威ある者」との信頼を置き、例えば公開、例えば正当な手続きなどの保証の下で「罰の存在」を認めることにしたのである。その基本が法律なければ刑罰なしの罪刑法定主義であり、その担保があってこその「罰」だったと思うのである。だからこそ人は天罰にしろ刑罰にしろ、課される罰に納得できる根拠を見出してきたのだと思う。

 だが体罰はそうした人々の信頼を悪用した。もちろん天罰・神罰に名を借りた宗教者による迫害や独裁者による裁判を利用した粛清のような行為があったことを知らないではない。それは天罰や刑罰の誤用や悪用であって、本来の用法を曲げるものではない。だが体罰には正当さが一つもないにもかかわらず、「罰」の文字を用いることであたかも正当な権限の行使であるかのような錯覚と誤解を加害、被害の両者に与えることになった。

 だから私は体罰という言葉そのものが間違いなのではないかと思っているのである。それは学校における教師や指導者などによる単なる暴力でしかない。校内暴力、教師暴力、指導暴力、教育暴力・・・、なんと呼ぼうとも「罰」の文字を使うことは、使う方にはその行使が正当であるかのようなイメージを、使われる方には従順に従うのが当たり前であるかのようなイメージを与えてしまったのではないかと思うのである。

 最近政府部内でも体罰が論議されてるようである。特に体罰の定義を巡って議論があるとも聞いている。自民党がまとめた「いじめ防止対策基本法案」には、いじめの定義の中に教師の体罰も含めることとしたが、さまざまな意見が出ているようである。
 その中には「児童間のトラブル(いじめ)と教師と生徒の関係(で起きる体罰)は次元が違う」と言われたり、部活の試合中などで「いい加減にしろ」、「バカヤロウ」、「お前なんか、やめちまえ」などというのもいじめになるのだろうかとの批判もあるという。

 そうした意見がまるで分らないというのではない。相手の体に力を加える体罰にだって、指先でこつんとはじくのから殴る蹴るなどまで多様な段階が存在するだろうことを理解できないではない。そしてその全部を体罰と呼ぶことが正しいかどうかの疑問も分るつもりである。だがこうした意見の背後には必ずと言っていいほどついてくる言葉がある。それは「先生と生徒の信頼関係」という語である。そのこともまた分らないではない。いわゆる「愛の鞭」論である。先生が愛と信じて生徒を殴り、生徒がその暴力を先生からの愛の鞭だと信じられたならそれは体罰とは言わないという理屈である。

 今回の体罰に関しては、加えた本人もまた団体の役員などもこぞって指導者と被指導者との間に信頼関係が足りなかったとの反省を述べている。でもそうした意識の背景には、信頼関係があれば体罰は許されるみたいな思いが感じられてならない。私には信頼関係という言葉が出てくること自体が誤りではないかと思っている。信頼関係があろうとなかろうと、暴力は暴力だと思うからである。信頼関係はもしかしたらその暴力が表面化するのを防止するだけの意味しか持たず、その効果を狙って指導する側が強調しているのではないかとすら穿ってしまうのである。

 もしかしたら体罰が暴力となるかどうかは、程度の問題なのかも知れない。指先でこつんと弾くのもまた体罰なのかと問われたなら、恐らく多くの人はその暴力性を否定するだろうし、私自身にも暴力だと認めるだけの自信はない。
 だからこそ、私はどんな体罰も暴力として認定していいのではないかと思うのである。言葉による暴力も含めて、相手に加える否定的な行為はすべて体罰に含めていいのではないかと思うのである。先のいじめ対策基本法案で問題提起された内容も含めて、たとえ指先で弾くような軽い行為であっても、心理的または物理的な攻撃によって受ける側が心身の苦痛を感じるような行為はすべて体罰の範囲に含めるべきだと思うのである。
 「程度の軽重による」との考えをまるで理解できないというのではない。だが、程度論を持ち込んでしまうと、結局その中に埋没する許容できる体罰を容認してしまうことを恐れる。許容される体罰、許容されるいじめという思いを抱いたとたんに、その小さな傷口から暴力というの名の細菌はあっと言う間に感染を拡大していくと思うからである。例え指導効果の減少や生徒に馬鹿にされるなどの副作用があったとしても、心理的にも物理的にもマイナスとなるような言動を一切しないことのなかにこそ、体罰を排除する基本的な方策があるのように思えるのである。

 そんなことを言われたら生徒の指導などできない、生徒同士がふざけあうのも暴力か、そんな声が聞こえてきそうである。叱ることそのものが否定されてしまうのではないかと危惧する声も聞こえてくるようだ。でもそれらの声はことごとく、「罰」という言葉の持つ正当性の錯覚からきていると私は思う。だから私は「体罰」という語そのものが私たちを呪縛しているのではないかと思い、この語から解放して単純に「暴力」という語に変えていくべきでないか、変えることによって劇的に体罰は減少していくのではないか、そんなふうに思っているのである。

 この問題を契機にして、日本常道連盟の女子柔道部のコーチによる暴力が発覚したほか、福島県の高校や長野県の中学校の運動部の顧問の暴力、北海道北斗市の中学校教諭による暴力などなど、いわゆる体罰と呼ばれるような事件が続々と明らかになってきている(2013.1.30、31、朝日新聞)。恐らくこれらは氷山の一角であろう。体罰を許容する体質は私の中に抜けがたく残っているからである。
 まず「体罰」という言葉遣いから改めよう。そこから新しい一歩が始まる、そう考えたい。


                                     2013.1.31     佐々木利夫


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