もと横綱の大鵬が先日(20013年1月19日)亡くなった。その訃報に接して、「著名人の死」以上の感慨みたいものを感じてしまった。それは私と大鵬の間には、ホンの僅かともいえる接点があったからである。もちろん大鵬は私を知らないし、私も彼と話したことすらないから、接点といえるほどのものではないかも知れない。

 その接点とは私の記憶の中で、彼と私が「同い年」ではないか、そして私の通っていた小学校に彼がいたのではないか、との思いがどこかに残っていたからである。単純にこの二つの事実を重ね合わせるなら、彼と私は同期生であり、場合によっては同級生だっかも知れないということになる。

 そんなもやもやした感触だけを残して、その真偽について特に詮索することもなく、私は今日までの時を過ごしてきた。彼が横綱になって一世を風靡したのは1961(昭和36)年のことだから、今から52年も前のことである。「巨人、大鵬、卵焼き」と子どもの人気者として騒がれたことも、1971(昭和46)年に引退してからは世の中の話題になることも少なくなっていった。

 今回の訃報に伴う報道によって、横綱引退後も角界でそれなりの活動を続けていたことは分ったけれど、横綱としての話題とは比べ物にならなかったことは事実である。相撲の人気は子どもだけのものではないだろうけれど、最近の私はさっぱり相撲への興味がなくなってきて、ニュースの時間に登場する勝負を時に目にするくらいでしかなくなっている。

 そんなこんなで横綱引退の頃から大鵬の存在そのものが私の中から希薄になっていき、相撲への興味の薄れがそれに拍車をかけ、先に掲げた「同級生かも知れない」との疑問についても、特に気になることもなくなって未解決のままどこかへ棚上げされてしまったようだ。それが彼の死によって再び頭を持ち上げてきた。

 こんなとき、インターネットは便利である。検索サイトの一覧からは彼をめぐる話題が溢れるほど存在していることが分る。インターネット情報は書かれていることの根拠がきちんと示されていないケースが多いことから、必ずしも信頼できないとも言われているけれど、重宝であることに違いはない。まあ、インターネットを利用して学術論文を書こうとするわけでもないので、ここではご容赦願うことにしよう。

 さて、彼との関連の第一の疑問、「同い年ではないか」については、訃報では享年72歳とあってまさに私の年齢と同じだったことからますますその思いを強くした。この疑いへの解明は簡単である。彼の生年月日さへ分ればいいからである。
 彼の生年月日は1940(昭和15)年5月29日になっていた。ところで私の誕生日は同じ1940年ではあるのだが、1月21日である。つまり私の方が約4ヶ月先輩ということになる。しかも、4月1日をまたいでの違いになるから、いわゆる私の方が「早生まれ」ということになって、「遅生まれ」の彼とは学年としては一年先輩になるのである。

 さてこれで私と彼とが同期生、同級生かも知れないとの疑念はあっさりと解決した。だが第二の疑問、同じ学校に通っていたのではないかは未解決のままである。そこで引き続き彼の出生からの経歴を調べてみた。なんと、まさに同じ小学校に通っていたのである。

 彼は樺太でロシア人の父と日本人の母との間に生まれている。だが第二次大戦の日本敗退で行方不明になった父と離れて母は子どもを連れて北海道へ避難してきた。小樽行きの船に乗ったが疲れと船酔いでやむなく稚内で途中下船したが、この船は間もなく留萌沖で撃沈されてしまったので、結果的にではあるが彼は九死に一生を得たことになる。母はその後教師と再婚、義父の転勤で彼もまた北海道内を転々とする。その転校の一つに夕張があったのである。

 経歴によると、彼は小学校4年生の一年間だけ、夕張の若菜小学校にいたことになっている。私は夕張の若菜地区の平和という地域に住んでいて、若菜小学校は歩いて10数分のところにあった。もちろん、一年生から卒業までその学校に在籍していた。
 ということは、彼が若菜小学校に4年生で転校してきたとき、早生まれの私は同じ学校の5年生だったことになる。つまり彼とは一年違いの若菜小学校の同窓生であったのである。

 知床の岩尾別小学校から転校してきた彼は、一年後には弟子屈町の川湯小学校へ転校しているから、結局若菜小学校には一年しかいなかったことになる。そしてこの転校後の弟子屈が、彼のふるさととして現在まで続いているのである。

 それだけの関係でしかない大鵬だが、一年とはいえど同じ学び舎で同じ空気を吸っていたであろう後輩の訃報には、どこか身につまされるものが残る。そして繰り返される訃報報道にはもう一つ私を切なくさせるものがあった。それは、全盛期の彼の横綱姿と最近の彼の姿が繰り返し繰り返し流れたことであった。それは彼の横綱と現在を隔てる50年の歳月を一瞬に対比するものであった。

 人は50年を経て50歳分の年齢を重ねていくはずである。大鵬もまた50年を経て横綱の雄姿から現在の姿へと小さな変化を重ねてきたはずである。それが瞬時にして対比できる映像をこれでもか、これでもかとテレビは流し始めたのである。老いることがなんでもかんでも残酷だとは思わないけれど、あからさまにしかも強制的に対比させられることにはどこか違和感が残ってならなかった。

 ともあれ、大鵬は幽明境を異にした。記録によれば私は彼と同じ学校で一年間を過ごしたはずなのだが、残念なことに彼の記憶はもとより私自身のことさえもまるで残っていない。それでも一年後輩の彼の生涯に老いを重ねたのは、映像もさることながらその死に己を重ねたからなのかも知れない。
 最近は昭和を巡る話題が多くなってきている。それだけ平成に生まれた者の割合が高くなっていって、私たちが明治大正という時代の呼称に抱いたのと同じような懐古の思いを、今の若い人が繰り返しているからなのかも知れない。私が結婚した東京オリンピックの開催された昭和39(1964)年、「1970年のこんにちは」と歌にまでなり月から持ち帰ったとされる石に浮かれた万国博覧会などなど、私の生きてきた時代がそのまま単なる思い出を超えて、歴史にまでなろうとしていることにどこか戸惑いを感じている。「昭和健在なり」と思わないではないけれど、どこか強がりの寂しさが重なってしまうようである。


                                     2013.1.25    佐々木利夫


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大鵬が死んだ