明日9月19日が旧暦の十五夜で今年の中秋の名月である。昨日の17日が十三夜だった。いつもなら午後5時半頃に事務所を出て帰路につくのが普通である。満月は約29日ごとに巡ってくるから毎月のようにあるけれど、満月がいかにも「満月です」というように見えるのは、空が晴れて日没と月の出が帰宅時間に重なって目線が低い位置に月が見えるような場合が多いだろうから、機会は思うほど多くない。

 それでも9月も半ばを過ぎると帰る時間帯がもう暗くなっているので、そんなときに快晴の空とぶつかると、まさに「見てください」とばかりの満月がビルの合間に顔を出すことになる。しかも私の事務所からは、外へ出ると東に向かって1〜2分歩き、そこから北へ10数分歩いてJR駅へと向かうので、出てすぐの東に向かったほぼ真正面に月が顔を見せてくれることになる。

 昨日の17日は、友達から仕事を頼まれて事務所で居残りをしていたので、帰るのが20時近くになった。今日が十三夜であることは朝のうちは気づいていたのが、玄関を出るときにはすっかり忘れていた。それで突然外へ出て、少し南寄りではあったし、月の出からは時間も経っていたのでやや中天に掛かってはいたものの、満月と見まがうばかりの姿が斜め右上の西区役所の上空に輝いていた。

 昼間は覚えていて、出かけるときに忘れて、外へ出て突然に満月もどきに驚かされた、そんな昨日の十三夜だった。台風18号が14日頃から九州四国を襲い、浜松に上陸して東北を抜けて襟裳沖から16日の釧路沖へと進んで、全国に被害を与えた。台風一過と言ってしまうと、被害を受けた多くの人びとの気持ちを逆なでするようだが、そのせいなのか17日は朝からほぼ快晴に恵まれた。だから十三夜もまた見事な月になったのである。

 昔から日本人は満月よりも少し欠けた、十三夜や十六夜の姿に情緒を感じたのかも知れない。まん丸の欠けることなき姿よりも、その少し前、少し後の月の姿に、どこか心惹かれるものがあったのだろう。
 満月を愛でる風習は世界にあるだろうが、果たして少し不完全な姿の風情に心を寄せる国民はあるのだろうか。今のように街灯が普及していなく、街々の住宅の明かりが行灯やろうそくだった頃には、恐らく夜の世界は真っ暗闇だったことだろう。それはまさに魑魅魍魎や妖怪や幽霊の世界でもあったのではないだろうか。

 「月よみの 光を待ちて 帰りませ 山路は栗の 毬(いが)の多きに」。ふと、こんな歌を思い出す。良寛和尚の歌である。「月よみ」とは月読命(つきよみのみこと)の意味で、日本神話(古事記・日本書紀)における月の神、夜を司る神のことである。意味は文字どおり、「山道は暗いから月が出るのを待ってから帰ったらどうですか・・・」と言うだけのことである。良寛の時代、真っ暗な世界に月の光がどれほど明るかったことだろうか。現代では想像もつかない世界である。

 もちろん現代はどの家にも煌々と明かりがつき、事務所の帰途にある午後8時近くの商店街はまだ営業の真っ盛りである。人工衛星や宇宙ステーションから地球を眺めた映像を時々見る機会があるが(NHKBSプレミアム、コズミックフロントなど)、真夜中の日本列島全体がまるで地図そのものを見るかのように輝いているくらいだから、今の日本は全国が不夜城でもあろう。

 そうは言っても札幌の中心から少し離れた琴似の街並みは、不夜城と呼ぶには暗い。それでもそんな中でいきなり目の前に現れた十三夜は、まさに満月とも見まがうほどの明るさで私を驚かせた。良寛の生きていた時代は江戸の中期から後期にかけてだし、また彼が住んでいた地は新潟だから、日常的には提灯などもあったろうけれど、「山路」を歩かなければならないような田舎では外はまだ真っ暗だったのではないだろうか。

 良寛の歌ほど頼りになるほどの明るさではなかったものの、一瞬「何だろう?」と思わせるほどの明るさが目の隅にあった。月は私の歩調に合わせて、約20分弱のJR駅までの道をビルに隠れ、薄い雲に隠れ、また建物の陰から姿を見せるなどして一緒について来ている。そして電車に乗って着いた我が家のすぐ近くの駅前にも、ちゃんと出迎えてくれていた。

 ただそれだけのことである。月の明るさが街灯代わりに、私の歩く道を照らしてくれたわけでも、月の満ち欠けや高度が今の時刻が夜の8時を過ぎていることを教えてくれたわけでもない。ただぼんやりと明るい月を眺めただけのことである。それでも今日が満月ではなく十三夜であることに、そして古来からこの未完成な月の姿に人びとは満月とは異なる思いを寄せていたことに、なぜか心惹かれただけのことである。

 十五夜と満月は必ずしも一致するものではないらしい。恐らく計算上の満月は「太陽と月の位置が地球を挟んで真反対にある」状態を言うのだろうから、それは多分一瞬の時刻を指すのだろう。その時刻が、必ずしも月の出ている夜である保証はない。十五夜の月がその一瞬の時刻を過ぎてから山の端から姿を現すことだってあるだろう。そういう意味では、今年の十五夜は月齢が満月として見える夜の時間帯と一致する正調十五夜なのだそうである。そしてそうした正調十五夜は、あと7〜8年ほど待たなければ再び見る機会は巡ってこないとは新聞・テレビの報道である。

 そんなニュースをいかにももっともらしく報道するメディアの姿勢には、なんだかとても知ったかぶりでわざとらしさを感じてしまう。ともあれ札幌の明日の天気予報は晴れである。十三夜の月もいいけれど、十五夜もやっぱり見てみたいと思い、恐らく明日の帰り道は何度も天を仰ぎながら歩くことになりそうな予感がしている。明日も本当に晴れるといいですね。そして続く十六夜も・・・。


                                     2013.9.18     佐々木利夫


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