雑誌や新聞の切り抜き、折に触れて書き留めておいたメモ、そんな中から毎週2本を目標に私はこの場へエッセイを発表してきた。書き終えてしまった資料はその都度紙くずとして処分してきた。それでもエッセイに採用されなかったメモは必然的に机の上に残されることになり、ときを経て書棚の隅にまとめられ、やがて紙くずの山として書棚の更なる目の届かない奥の奥に忘れ去られるようになってきた。年に一度くらいは引き出そうとしてみるのだが、新しいメモに追われることやメモした当時の感動がなかなか思い起こせないことなどからそのままに放置されてしまう。

 その紙くずの積み重ねの存在は、まさにそうした資料から新しいエッセイのヒントが得られなかったことを意味している。その紙くずの山の存在は、最初は宝の卵だと思っていたのだろうが、やっぱり紙くずでしかないことを私自身に知らせることでもあった。書きとめたとき、切り抜いたとき、コピーしたときには、きっと何かの訴えかけるものがそこにはあったのだろう。でも時間が経ってみると、その訴えかけるものが何だったのか、その紙片からは時を経るにしたがって伝わってこなかったことを意味している。

 メモや切抜きはエッセイ資料に限らず仕事に関するものも含めて、事務所の中には毎日のように増えていった。だが税金は日々動いているから解説本や雑誌のバックナンバー、税法改正の記事や質問に対する回答メモなどはいずれ陳腐化してしまうから、その都度または税制改正のたび、更には1〜2年で整理している。だから残っているメモは仕事以外の私の思いにつながるものであり、整理されないまま時間が止まったかのように積んだままになっている。だから残されているメモは、そのまま私の中の止まった時間でもある。

 もちろんそうしたメモの中から作品へと敗者復活のごとく、もしくは不死鳥のようによみがえって採用されたものもないではなかった。だが旧いメモはどうしても残されたままになってしまう、旧さが重なるとその出番は更に少なくなる。このホームページへエッセイを書き始めてから10年を超えた。だから資料の中には10年を超えるものも出てきた。そうなれば再度の出番は期待できないのが道理である。

 読み返してみても、メモしてあることの意味は分かるけれど、どんな思いでそのメモを残したのか、そのメモをどんなに結論へと結び付けたかったのかなどがまるで伝わってこないものも多い。エッセイは一応起承転結を基本に書こうと思っているから(そうでないものもけっこう多いとは思うが)、そのメモにもそうした経緯というかストーリーも一緒に付記して置けばいいのだが、そんな努力の跡などまるで見られないのはメモであることの本質なのかも知れない。とにかく「書いたことは分った」けれど、「何を言いたかったのか」がどうにも伝わらないメモが余りにも多すぎるのに気付く。

 そんなこんなで、このメモを後生大事に残しておいても、新しいエッセイのタネにはなりそうにもないことが次第に分ってきた。使えないメモなら単なる紙くずであり、処分してしまうしかない。でもこのメモは少なくとも、作られたときは私に何かを訴えたはずである。本を読みながら、テレビを見ながら、寝ぼけた頭の起きがけの枕元、また時には歩いている途中や友達やスナックのママさんとの会話の中などに、「これは」と思う何かのひらめきみたいな思いが私の心を捉えたはずである。

 そはさりながら情熱に駆られた書いたラブレターを翌朝読み返してみるようなものだから、そのあまりの稚拙さに破り捨てたい気持ちになるのは当たり前かも知れない。でも稚拙にしろそんな思いを抱いたことは、メモを作った時には真剣だったはずである。だとするなら、そのまま反古にしてまうのには忍びないものがある。使えないながらも、そして稚拙、未熟、未完、意味不明を覚悟の上で、せめて墓名碑としてでも羅列しよう、そしてその上でこのメモは廃棄してしまおうと思いついた。

 机や書棚の奥に積んであったものだから、そんなに多いとは思わなかったのだが、目障りになっている机や書棚など以外にも透明ファイルの中に押し込んであったり、机の引き出しの中に詰まっていたりなど、後から後へと紙片がでてきた。
 雑記帳始末記と題して整理を始めたのが、今年の3月である。どれくらいのヴォリュームになるか見当もつかなかったのだが、とうとう今回発表した35回分にもなり、書き込んだ項目(メモの数)はなんと450にも及んでしまった。

 たった一行くらいのメモから、中には数十行になろうとするものまで、雑多である。そして書いてある内容もまさに脈絡がなく、本来は一つのテーマを持たせようとしたのだろうが、その意図はタイトルどおり雑記帳のままになっている。

 とは言えこの35回にも分けて書いた雑記帳整理のおかげで、私の作ったメモはきれいに後片付けをすることができた。意味不明、意図不明のメモも多く、しかも私のメモは乱筆を超えて解読不能とも思えるものも多かったことなど、掲載できるような1回分10数本の中身として整理できる状態にまで仕上げるにはそれなりの時間と努力を要した。また整理しかけて、まるで判読不能、理解不能に陥り、とうとう原稿化できずにそのまま処分してしまったものも少なからずあった。簡単に整理できると思ったメモだったが、そんなこんなで思いのほか時間がかかってしまった。

 ここから自分なりの思いや考えが伝わってくるか、または思い込みの変化が読み取れるか、更にはこれまで発表したエッセイと真っ向から対立し矛盾することがないのか、それは分らない。10年を超える私の遍歴の一部がここにある。この中途半端なメモに託した思いも、それなり自分の一部である。拾い集めた雑書きのなかにも少なからず私自身が潜んでいることだろう。

 これで埋もれていたメモの整理は終わったが、基本的に私のエッセイは書き留めているメモから作成することが多いので、メモの作成は相変わらず続いている。整理が終わったと言ってる後から、机の上には次のメモがもう5枚、6枚と重なっていっている。この調子だと、数年を待たずにエッセイになりきれなかったメモが再び机上を席巻する日がくるかも知れない。そのときは雑記帳36回目へと続けることにして、今回の作業はこれでお開きにしよう。ともあれ机の上も本箱も書棚のファイルもきれいに整理されて、気持ちのいい事務室になった。


                                     2013.6.7     佐々木利夫


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