一人の事務所で一人で過ごし、あんまり仕事熱心でもない税理士にとって、「ながら」も含めてテレビは格好の暇つぶしである。撮りだめしてあるビデォの鑑賞も含めると、テレビは暇つぶしの必須アイテムだと言っていいのかも知れない。これに昼寝が加わると一人の事務所は、まさに完璧な秘密の基地に変身する。

 ニュース、映画、ドラマ、ドキュメントなどなど、見る番組は多様だが、SF、推理、科学ものなどの比重が高いのは、どちらかというと私自身の理屈っぽい性格が影響しているせいなのかも知れない。それに加えてアナログテレビの時代からデジタル放送の移行に伴い、BSやCS放送などチャンネルが飛躍的に増加したことも、視聴対象の拡大に拍車をかけている。しかも一枚のディスクに録画できる時間が飛躍的に増え、ブルーレイディスクそのものの価格が安価になったことや、無料放送だけで食傷気味になるほど番組が増加していることなども、この秘密の基地の充実をバックアップしてくれている。

 ただ、事務所が入っているマンションには衛星放送の共同視聴用集合アンテナがなく、テレビそのものはBS・CS放送に対応しているにもかかわらず、地上波だけしか利用できないのは残念である。とは言っても自宅マンションは衛星放送に対応しているので、自宅にブルーレイの録画機、事務所にはその再生機を備えるだけで、ディスク一枚10時間を越える番組が容易に我がコントロール下に入ることになり、気ままなテレビ観賞はより充実することになる。しかも録画した番組はコマーシャルを飛ばすことができることから、一時間番組を40数分で消化できるなどタイムマシンの効果もある。

 そうした中で、和洋を問わず推理番組に接する機会が多い。その中で最近気になっているジャンルがある。それは時刻表をトリックに使ったドラマである。

 例えば東京で殺人事件が起き、ある容疑者が浮かぶ。ところがその容疑者には殺人の起きた時刻に大阪にいたという完璧なアリバイが存在し、犯行は不可能であるとの証拠がある。この完璧ともいえるアリバイをどう崩すのかが、ドラマの主題である。アリバイ崩しのドラマは、推理ものの中では比較的定番と言っていいほど多いのかも知れないから、それほど物珍しくはない。

 ただそうした中でどうにも気になるのが、「時刻表トリック」の分野である。容疑者には、列車に見送りに来た者や途中まで同乗した者の証言、旅行中に撮影した記念写真、到着駅で出迎えた知人の証言、宿泊したホテルの受付風景などなどが示され、容疑者が殺人を実行することなど不可能と思われる証拠がいくつも出てくる。

 こうした証拠を一つずつ壊していくのが、ドラマの主人公である素人探偵や主婦探偵、へそ曲がり刑事などの役目である。その謎解きを解明する主人公の職業は、時に占い師や観光ツアーガイドや弁護士・検事などにまで広がっていき、これに事件現場に観光地を加えることなどがドラマの人気をますます高めているようである。

 アリバイ崩しの手法も多様であり、時刻表一冊から読取れるようなトリックから国外路線の利用、時には容疑者によるスカイダイビングやハングライダー、貨物船・ボートを使ったものなどまさに多様である。ただこうした時刻表トリックは和製ドラマに限定されているような気がしている。つまり、外国ドラマにこの手のストーリが出てくるのは、知る限り一つもないような気がしているのは私の趣味が偏っているからなのだろうか。

 それはともかく私が気に入らないのは、どの物語も主人公がアリバイ崩しの手法の解明だけに満足してしまうことである。実行不可能と思われていた殺人が、特急と普通列車の乗り継ぎの利用であるとか、遠回りの列車の方が早く目的地に着くなどの手法により、容疑者による自力での犯行が可能であると説明することで満足してしまうことにある。

 物語の多くは、実行できる可能性を時刻表などを駆使して主人公が解説し、それを聞いた容疑者が涙ながらに犯行の一部始終を自白することで完結する。そのことはいい。自白が得られたことで満足するなら、ドラマとしては完成するのかも知れない。だがことは犯罪である。時刻表の組み合わせによる犯行の可能性を示し、そのことと本人の自白だけで終わらせてしまうのは許されないことだと思うのである。

 確かにA列車を途中下車してB列車を乗り継ぎ、C駅で下車して飛行機を利用してD駅からE列車に乗り込むことで、容疑者が殺人を実行できる時間的余裕が生じることを説明することは可能である。だがそれは飽くまでも可能性でしかない。決してアリバイが崩れたわけではないのである。容疑者がA列車に乗車したと主張しかつA列車に乗車した事実があったとしても、その事実がアリバイとして成立しない可能性を指摘したに過ぎないのである。

 アリバイの成立は容疑者が立証しなければならないのではない。そしてアリバイの不成立がそのまま犯行の事実を証明することになるのでもない。まず第一に、警察や検察やドラマの主人公は、容疑者の主張するアリバイを確定的に否定する必要があるだろう。少なくとも犯罪現場にいなかったとする容疑者の主張は、容疑者が実行犯でないことの決定的な根拠となるだろう。ただそれを否定するには、単なる可能性の証明だけでは足りない。先に書いたようなA列車からE列車に乗り継ぐことが可能であることを指摘するのみでなく、容疑者が飛行機に乗車した事実、E列車に乗車していた事実などを具体的な証拠で示すのでなければ、アリバイの否定にはならないはずである。

 そして更に、事件現場で容疑者が殺人を犯したことの証明もまた必要である。仮に容疑者が飛行機に乗っていた事実を証明できたところで、それは容疑者が殺人現場に行くことのできる可能性を示したに過ぎない。更には容疑者が犯罪現場にいたことを証明したところで、それとても犯行の証明にはならないからである。

 それにもかかわらず、こうしたドラマはこの基本的な問題を少しも解決してない。もちろん容疑者はアリバイ成立を画策するための時刻表トリックを認め、殺人を犯したことを主人公の前で自白している。動機も手段も含めて、視聴者が抱く様々な疑問は短い時間ですっかり自白している。遠くに聞こえるパトカーのサイレンの音はこの容疑者が犯人として逮捕されるだろうことを示唆し、そしてドラマは終わる。

 ドラマは容疑者が犯人であることを、何一つ証拠と事実を示して証明していないのである。自白だけで完結させてしまっているのである。法律が「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」(憲法第38条3項)とし、「・・・その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない」(刑事訴訟法第319条2項)としているにも関わらず、こうしたドラマは自白だけを唯一の根拠に犯行の事実を完結させてしまっているのである。

 もちろんこれは単なるドラマである。こんなことで現実の裁判が進行していくとは思わない。だからドラマとして楽しむことができるなら、そしてその謎解きが面白いなら、目くじら立ててて批判する必要などないのかも知れない。でもこうした時刻表トリックを利用したドラマは際限なく湧いてくるし、しかもその筋立てもまるで変わっていないのである。

 だから私は、こうした風潮がいつの間にか世の中に蔓延し、国民の意識はもとより司法関係者の内心にまで、こうした「自白偏重」の思いを無意識にしろ浸透させている背景になっているのではないか、そんな気がしてならないのである。
 「事実の認定は、証拠による」(刑事訴訟法第317条)は私の口癖であり、どちらかというと私の長い人生を支えてきた信条の一つにもなっている。だからこそ、安易に自白だけで完結してしまうドラマが乱造されているような状況に、いつもながら納得しないものを感じてしまうのである。たとえそれが単なる視聴率稼ぎの「安手のドラマ」に過ぎないとしても・・・。


                                     2014.7.17    佐々木利夫


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時刻表とアリバイ