雑多な存在を分類整理することによって、人はその存在の系統的な意味なり意義を理解しやすくなることは否定できない。そのことは良く分かる。動物を脊椎の有無や哺乳するかしないかなどで分類して、そこに共通した特徴なりパターンを発見することは、動物という存在の理解をとても分りやすくしてくれる。

 ただ、その分類の境目が画然とした揺るぎない一線で区切られているのなら、その線の右か左かへ判定するものを投げ入れることでその理解を確実に深めることができるだろう。ただそうした分類の基準がはっきりしていないとか、時代や人によって変ってしまうなどの場合には混乱が生じてしまう。

 もし、分類しようとする事物や現象が連続しているとしたなら、突き詰めていくと一線を画するような基準は、どこかで曖昧になるものかも知れない。けれど、それでも私たちはそこまで詮索することなく妥協することができるように作られており、かつそれで足りている。

 例えば動物と植物の区別は、私たちは何の迷いもなく理解できているように思っているけれど、原生生物のレベルまで掘り下げていくとみじんこと緑藻類の区別が曖昧になっていくなど、必ずしも私たちの理解の程度を超えてしまうものもないではない。むかし聞いた知識だけれど、たとえばウィルスは自己増殖するけれども生物とは言えないとの話を聞いたことがある。生物なのか無生物のままなのか、今では確定されているのだろうか。

 これも本で読んだ知識でしかないのだが、例えば自分と同じ種を再生する能力を持つ者を生物として区分するとした場合、100万年に一度呼吸し1億年かけて二つに分裂して増殖する巨大な岩があったとするなら、その岩を私たちは果たして生物として認識できるのだろうか。

 こんな話を持ち出したのは、最近「放送大学と称する番組を見なくなったな」と思い、そして「たまには見てみようかとチャンネルを代えてみて、「やっぱり以前と同じだな」とやや悲観してしまったことがあったからである。

 この番組は通信大学講座のようなスタイルをとっており、大学の卒業資格をとるこもできるし生涯学習とも言える知的な満足を得るために視聴する人を対象とした番組にもなっているようである。放送される内容のすべての科目に興味があるわけではないけれど、居ながらにして大学での講義を受けているような気持ち(たとえそれが錯覚にしろ)にさせるような科目もあり、しばらく継続して視聴していたことがある。

 熱心に休みなく見ていたわけではないけれど、好奇心をくすぐるような講座がいくつか用意されていて、それぞれに専任講師が熱心にたずさわっていた。ただ気になったのは、その講義の多くが分類の解説に終始していることであった。科目が専門的であるのは分るし、それがどんなに専門的であろうとも、その内容に興味を持つ視聴者がいるという意味において、その存在価値はあると思う。

 でも、その講義内容が分類の説明に終始してしまうのはどうしてだろうか。分類そのものを悪いとは思わない。その科目を独立して存在させるため、一般論から分類を重ねてその拠って立つ位置を視聴者に分ってもらうことは必要だと思う。つまり、その科目なり説明しようとする事象の存在意義を確立し、その立ち位置を多くの人に理解してもらうための努力として分類とその説明があるのだろうと思うからである。

 ただ講義が事象などの分類に終始してしまうのは本末転倒であるように思えて仕方がない。数十回にわたる講義なのだし、その全部を視聴することなく評価することは間違いなのかも知れない。それでも、聞くたびに講義内容が事象の分類とその説明ばかりなのにはいささか辟易してくる。

 多くは学説の紹介である。たとえばある法律の条文があり、その解釈としてA説、B説、そしてその折衷としてC説があると講師は説明し、それぞれについてその学説の特徴を解説する。時にはA説はα、βの二節に分類されるなどと解説される。そしてそれだけで次の項目へと進んでいくのである。聞いてるほうにしてみると、一つの条文の解釈に三説また更に細分される説のあることは分ったが、それだけで納得できるかというとそんなことはない。

 まず第一に、それぞれの説の境界が曖昧なのである。講師もその境界をはっきりと説明することはしない。講師は単に「・・・だと思う」とか、「・・・ではないだろうか」とか、「・・・この点の解決が難しい」などと、いわゆる「お茶を濁す」ような解説をするだけで、いかにもその条文の全貌を説明したかのような体を装いそのまま講義を進めていくのである。それは例えばA説を否定することすらしないのみならず、C説を積極的に支持するとの宣言すらしないことが多い。つまり、単なる学説の羅列や紹介に止まるケースがほとんどなのである。

 そして第二に、分類したことの意味を示さないことである。なぜ分類する必要があるのか、そして分類することでなにを示したいのか、その分類によって事象の100パーセントを満たしているのか、そんな説明すらひとつもないのである。これではその視聴している者を混乱に陥れるだけである。つまり、視聴者自分の立ち位置が定まらないのであり、その講義を理解するための基本が身の裡に定まってこないのである。

 これは法律関係の講義に限らない。私の視聴する講義は私が個人的に興味を持っている分野に限定されているから、それを以って全体を語ることはできないことは承知している。だが、介護関係にしろ化学や物理学、宇宙や色彩関係などにしろ、それなり興味を持っている講義にチャンネルを合わせるのでそれなり多方面の分野にまたがっていると思っている。だが、そのいずれもが分類の説明に終始しているのである。

 文学が自然派やロマン派など数十に分類されることが分ったところで、そしてその小説や詩歌がどこに分類されるかが分ったところで、私には文学の理解に近づけているとは思えないのである。作曲家の作風や絵画の色使いが古典的なのか印象派的なのか、はたまたシュールリアリズムに属するのかなどをどんなに説明されたところで、ベートーベンに感動しピカソに心酔することの助けになるとは思えないのである。

 もちろんそうした分類が無駄だとか意味がないなどとは思わない。ただ、そうした分類がどんどん細かくなっていき、大分類、中分類、小分類、さらに細分類へなどと際限なく続く場面を見ていると、一体分類とは何なのだろうかとの疑問が湧くと同時に、分類に投げ込まれた事象そのものへの興味の喪失さえ招くような気がしてならないのである。

 分類することはいい。だが、何のために分類するのか、分類の目的はどこにあるのか、分類しなければどんな不都合があるのかなどを、講師は分類を説明する都度その意味を視聴者に伝えていかないと、大切な「人が持つ好奇心や興味」みたいな宝物を、どんどん削ぎ落としていってしまうのではないだろうか。せっかくの講座が、その分野への興味を削いでいるかように思えることに、私は残念な思いがしてならないのである。


                                     2014.12.5    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
分類の効用