最近、死刑が確定した袴田事件の再審(裁判のやりなおし)の決定がなされ、冤罪事件の疑いがあるとしてマスコミを賑わしている。

 この事件は1966(昭和41)年6月、静岡県清水市で起きた火災によって一家4人が殺されたのが発端である。8月に放火された会社の従業員である袴田が逮捕され間もなく自白、裁判では一貫して無実を訴えたが1968(昭和43)年9月、静岡地裁で死刑の判決がなされた。その後1980年に最高裁で上告が棄却され死刑が確定した事件である。何度かにわたる再審請求に対して、今年(2014年)3月27日に静岡地裁がその請求を認めて審理を再開することを決定した。

 この事件がマスコミや弁護団が騒ぐような冤罪事件なのかどうか、まだ再審決定の段階であり私の知識は「袴田事件」というタイトルくらいに止まったままなので、その当否について判断するのは止そう。ただ、「死刑判決の再審」ということで、世上を騒がせたことだけは事実であろう。ただ私は、またしてもマスコミの放つ冤罪は許されないとする論調にいささかの疑問を感じたのであった。

 私は冤罪が許されるというようなことを言いたいのではない。あっていいことか、と問われるなら、あってはならないと答えることにやぶさかではない。ただ、「絶対に許されないのだから死刑は廃止すべきだ」とするあたかも正論に見えるような思いに、ちょっと待ってくれといいたいのである。

 冤罪とは誤判の別名である。誤判には有罪なのに無罪と判断する場合も含まれるだろうから、そうした意味では冤罪と誤判とは同義ではない。それでも、その判断は裁判という形式を通じて示された一つの形であることを否定することはできない。

 裁判がいつも正しいかと問われるなら、それはとても難しい。時の権力者に迎合する判断が示されたかのような事例をよく見ることがあるし、また時の権力そのものが裁判を牛耳ることだって珍しくはない。それは国際司法裁判所だって、中世ヨーロッパでの魔女裁判だって同じなのかも知れない。また、裁判官や陪審員が真剣に考え、そして評議した結果だとしても、証拠の見誤りや判断のミスなどで誤判が発生するケースだってないとはいえない。

 また、極端に言えば、意図的に誤判するようなケースだって、特に思想犯や政治犯などに対してはあるかも知れない。裁判官や検察官が私的復讐を遂げるために裁判を利用するケースだってないとは言えないだろう。でも、そんなことを考えてしまったら、裁判という制度そのものの成立が揺らいでくるだろう。だからここでは通常の意味での冤罪、つまりきちんと手続を踏まれた上で出された結論(判決)が誤りだったことを背景として考えていくことにしよう。

 そうすると、「正しい審理」がなされたにもかかわらず誤った判断がなされることがある、ということである。もちろん「正しい審理」というのが何を指すのかはとても難しいことである。弁護士や検察官や裁判官、時に陪審員や裁判員を交えて一つの結論を出すのではあるが、それぞれの証拠に対する評価や判断はまちまちであろうし、「疑わしきは罰せず」と言ったところで、「疑わしくない」と間違った判断したのだとすればそれはそれで適用外になってしまう。

 私は冤罪があってもいいと言っているのではない。ただ、人が人を裁くときに、「絶対に誤りがあってはいけない」ことを前提にしてしまうと、裁判制度そのものが成立しなくなってしまうことを恐れるのである。冤罪を恐れるあまり、司法が機能しなくなってしまうのではないか、そんな思いに囚われているのである。だからと言って多少は冤罪があってもいいではないかと思っているわけではない。

 ただメディアの論調は、「冤罪は世の中に決してあってはならない」ことに、あまりにも固執しすぎているのではないだろうか。この袴田事件に対するメディアの論調は、「冤罪は国家が無実の人を意図的に殺すことである」みたいな口調である。そしてその背景には、だから冤罪は絶対に許されない、絶対的な悪であるとの思いが抜けがたく残っているように思えてならない。

 死刑を一種の殺人と考えてもいいだろう。でも考えても欲しい。死刑の判決は「意図的な殺人」や「悪意ある殺人」とは違うと思うのである。審理をどこまで突き詰めるべきか、充実すべきかはともあれ、死刑の判決は検察、弁護士、裁判官、そして地裁・高裁・最高裁の三審制によってきちんと制御された上で示された判断である。だとすればその答えが仮に誤判だったとしても、それは「過失による殺人」だと思うのである。過失だから許されると言いたいのではない。ただ「故意による殺人」では決してないということである。

 「冤罪は許されない」とする意見には賛成する。あってはならないとする思いにも賛同する。だからと言ってそれが「死刑制度の廃止」にまで及ぶのは間違いではないだろうか。ある出来事の判断の誤りを恐れて制度そのものを否定してしまったら、世の中は身動きが取れなくなってしまうのではないだろうか。
 冤罪などの裁判に限らず世の中には誤解や錯覚やミスによる間違いは数限りなく存在する。そうしたとき、行動そのものを起こさないか、もしくはある行動を禁止・否定することによって、その間違いを完全に阻止することはできるだろう。

 交通事故死は悪であるとして、車の運転そのものを禁止や否定すれば、交通事故は100%起きないだろう。冤罪もそうである。死刑を廃止すれば、冤罪による死刑判決を根絶させることはできるだろう。でもそれでいいのだろうか。痴漢行為での冤罪もメディアを賑わしている。ならば痴漢行為を罰することそのものを否定してしまえば、痴漢の冤罪も当然に消滅するだろう。

 もしかしたら死刑は人の命の問題であり、痴漢は命まで奪うのではないから別次元の話だといいたいのだろうか。痴漢や詐欺や窃盗などを犯したとして下された判断に誤判があり、仮にその判断が容疑者にどんなに過酷な運命を与えたとしても、「死刑=人の死」の方程式に当てはまらないのだから死刑の判断とは別だというのだろうか。
 私にはどうしてもそうは思えない。冤罪をなくすために慎重で徹底的な審理が必要である、とする意見なら分る。冤罪をなくするためのあらゆる努力をすべきだというなら分る。でもそれは、決して死刑という制度の否定にはつながらないと思うのである。

 それでも人は間違いを犯す。どんなに審理を尽くしても冤罪をゼロにすることはできないだろう。それは人が人を裁き、人が人を判断するときの宿命だと思う。だからと言って私は、そのことを制度の否定に結びつけるのは間違いだと思っているのである。


                                     2014.4.10    佐々木利夫


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冤罪と死刑廃止