自由への願望とその実現へ向けた努力こそが人間の尊厳に対する尊重であり、そうした自由を実現するために人は長く闘ってきた、私はそんなふうに人類の歴史を理解してきた。でも、具体的に「我が身にとっての自由」とは一体どこにあるのだろうと問い直していくと、とたんに行き詰まりを見せてくる。

 自由と我ままとがまるで違うことくらい、ほとんどの人が常識的に知っているだろう。でも知っていながら、その違いを我が身に当てはめようとすると、とたんにその境界が分らなくなってしまう。もちろん専制政治下の独裁者のもとで個人の意思が徹底的に無視されていることと、自らの意思で投票できる公平な選挙結果によって社会を動かしていくことができることとの違いを理解できないというのではない。

 そわさりながら、その違いは思春期の少女が自分の意に反して門限を午後7時と決められたことに対して親に反発するときの思いと、果たしてうまく折り合いがつけられるのだろうか。飢えている腹にパンを買う金がないという現実があり、一方に明るい商店の店先で焼きたての香りを放っている山積みのパンがある。「たまらなくパンが欲しい」と願う飢えと、パンに手を伸ばそうとする思いとを人はどこで折り合いをつけられるのだろうか。

 もう一つの面から自由を考えてみよう。自由という言葉は、とてつもなく美しい響きを持っている。制約も制限もない気ままな正義の衣装を、その身にまとっているように思えるからである。
 だが振り返ってみると、自由ってのはとてつもなく不自由なものであることに気づいてくる。なぜなら、自由を決めるのは自分だけであり、じぶんだけに任されているからである。

 それよりはむしろ、不自由のほうが気楽である。自由を決めるのは自分だけだとするなら、そんな面倒くさいことを自分で決めるよりは、他人に決めてもらったほうがどんなにか気楽だろうからである。「自分で決める自由」がどんな場合も実現可能であるなら、それを自分で決めることに何の躊躇もない。望むどんなことも直ちに実現できるだけの力を自らが持っているのなら、「自由への願望」はまさしく魔法の呪文となる。「アブダカダブラ」の一言でどんな望みも叶うなら、「自由」ほど楽しいものはないだろう。

 「自由」に付きまとう言葉なり考えが、「責任」なのかはたまた「危険」なのか、その判断について私は実は迷っている。ただ迷いつつも、「自由」が単独で生残るものだとは到底思えないでいる。責任にしろ危険にしろ、それは常に「自由」と表裏一体のものとして付きまとっている。自由だけを切り離して、それだけを単独で謳歌することなどできはしない。あたかもそれはコインの裏表と同義である。表しかないコイン、裏のないコインなど、この世には存在しないからである。

 コインの表を望むものは、その裏側もまた同時に承認しなければならない。だとするなら、自己責任だと責められる前に選択などしないほうがいいのかも知れない。自分で決めたのだから、例え意に反した結果であっても裏側を承認しなければならないのだとするなら、自分で決めずに他人に任せたほうが気楽である。そして更にあわよくんば、裏につきまとう責任や危険は選んでくれた他人に負わせることができれば言うことはない。

 物事の選択は他人に決めてもらう、そしてそれに伴う責任や危険もその他人に負ってもらう、そうした風潮が今の世の中にはびこっているのではないだろうか。「誰かが何とかしてくれる」との思いが、世の中に次第に広がってきているのではないか。依存することが気楽な人生になるのだと、人はどこかで思いこんでいるような気がしてならない。


                                     2014.11.14    佐々木利夫


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自由は不自由だ